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【連載】中央線人間交差点 Vol.2──1999〜2000年 高円寺周辺のライヴカルチャー

StoryWriter

2017年はHi-standardが18年ぶりにアルバム『The Gift』をリリースし、そのリリース方法も含めて大きな話題をさらいましたが、最近ライヴハウス・シーンやフェス等で注目を集めているバンドたちの中にも、Hi-standardをはじめとする2000年前後に活躍したバンドたちの影響を、多かれ少なかれ受けているものも少なくありません。

しかし、その2000年前後から現在に至るまで、そうしたバンドたちがどのような状況や、街から生まれてきたのか、ということがきちんと語られることはあまり多くなかったかもしれません。あえて言うならば、多くの音楽メディアは渋谷や下北沢を中心にした視点でシーンを切り取ることが多く、新宿や高円寺などの中央線のライヴシーンをその街の視点からきちんと取り上げてこなかったということもあるかもしれません。

ここでは、その2000年前後の中央線沿線のライヴハウス・シーンと街の空気のようなものを、これも偏った視点になってしまうのかもしれませんが、とりあげてみたいと思います。これは、過去を懐かしむためのものではなくて、これから新しい音楽とライヴハウス・シーンをつくっていくために、これまでの積み重ねを確かめておく試みのひとつです。(手島将彦)

手島将彦(てしま・まさひこ)
ミュージシャンとしてデビュー後、音楽系専門学校で新人開発を担当。2000年代には年間100本以上のライヴを観て、自らマンスリー・ライヴ・ベントを主催し、数々のアーティストを育成・輩出する。また、2016年には『なぜアーティストは生きづらいのか~個性的すぎる才能の活かし方』(リットーミュージック)を精神科医の本田秀夫氏と共著で出版。アマゾンの音楽一般分野で1位を獲得するなど、大きな反響を得る。
https://teshimamasahiko.co
印藤勢(いんどう・せい)
1978年生まれ。インディーズシーンで伝説のバンド「マシリト」(2009年活動休止。2017年再開)の中心人物にして、長年ライヴハウス「新宿Antiknock」でブッキングを担当してきた、新宿・中央線界隈のライヴハウス・シーンではかなり長命な人物である。最近は独立してミュージシャン向けの無料相談等も行なっている。9sari groupが経営するカフェで、猫&キッチン担当。
Twitterアカウント @SEIWITH

連載第2回:1999〜2000年

中央線人間交差点 Vol.1ーー1994年〜1996年の高校生が感じた音楽と街の空気はこちら

■「ストリート」がライヴハウスに流れ込んできた

手島将彦(以下、手島) : 1999とか2000年、周囲はどうでした? 〈AIRJAM〉が盛り上がっている感じ?

印藤勢(以下、印藤) : まさにそうでしたね。今だから言いますけど、「うちのハコはミクスチャーだから」って言われて、マシリトは渋谷サイクロンにブッキングしてもらえなかったですからね(笑)。もう猫もしゃくしもミクスチャー。当時テレビで「HANG OUT」「BREAK OUT」がはじまって。ミクスチャーじゃなくても、B-DASHとか、いわゆるメロコア、スカコアが台頭してくるわけですが。

手島 : その辺のシーンは横目で見ていた、という感じですか。

印藤 : 僕は遠巻きに見ていました。お客さんとして観に行く分には楽しかったんですけど、そのシーンに入る気はなくて。距離は置いていたし、置かれていましたね。

手島 : その辺の頃から、ハコの音も変わった印象もありますね。ミクスチャー系特有の堅い音というか。

印藤 : あと、人種が違うなあ、という感じでした。すごくスポーティで。ストリートファッションを身にまとっている。世代的にはちょい上と、ちょい下でした。下の方はもっと無邪気にメロコアとかやっている感じ。

手島 : 印藤さんは、そのシーンの近くにいながら、どっぷり浸かっていないという意味で、すごく客観的に見れてると思うんですよ。そこで訊きたいんですけど、なぜ、あの頃あのシーンがあんなに盛り上がったんだと思います?

印藤 : すごく思うのは、ライヴハウスに出入りする人種がすごく変わった。ストリート系というか、ストリートを感じさせる人たちが来るようになった。日本だったらAIR JAM系、海外だったらMachine Headとか、KornとかLimp Bizkitとか、ダボダボした格好でメタルをやっている人たちというか。ライブハウスがストリートとリンクしはじめたんです。

 

手島 : 僕の世代にはホコ天とかがありましたけど、あれがストリートかといわれるとちょっと違うかなと。もっと、普通のストリートな連中がライヴハウスに来はじめた、という感じですかね。

印藤 : 西海岸系の、野外で演奏しているのが想像できそうな感じというか。お客としても演者としても、ストリートな感じの人が来るようになったし、ラップやDJの文化が入ってきた。THE MAD CAPSULE MARKETSマイナーリーグBACK DROP BOMB、あとヌンチャクとか

手島 : ライヴハウスではないけど、その中で最もマスに売れたのがDragon Ashみたいな時ですかね。どっちにしてもストリートと繋がった。

印藤 : DJが市民権を得たのがでかいですね。クラブでもかかるロックみたいなのも出てきて。あと「こんなやつが出てきた!」みたいなのに、みんな目ざとかった気がしますね。もしかしたら、ライヴハウスの店員もそのときに一変したというか、一掃されたかもしれないです。ライダースと皮パンの長髪のやつが店員でという時代。もちろん僕はその頃から知っているわけなんですけど、服装とか、人種が、まさに当時のストリートなものに変わりましたね。「HANG OUT」「BREAK OUT」みたいなものと、渋谷のサイクロンですかね。あのライヴハウスグループ内(※この当時、新宿ANTIKNOCK、高円寺GEAR、高円寺20000V、下北沢屋根裏、渋谷屋根裏、渋谷CYCLONEは同じグループ会社だった)でも新しいハコだったから、コンセプチュアルに新しいことがやりやすかったかもしれないですね。

手島 : 2000年前後って、ライヴハウスシーンでもメガヒットが出た時期ですよね。そういう言い方が正しいかわからないけれど、第2次か第3次バンドブームみたいな感じだった気がします。そのとき印藤さんはもう高校も卒業しているしライヴハウスにも出てるから、ちょっと上の世代になっちゃうのかもしれないですけど、「バンドブームだなあ」みたいな感じはあったんですか?

印藤 : 僕個人は、盛り上がっているところとは距離を置いてたので、どうなんでしょうね。でも、少なくとも今よりも盛り上がっているというか。テレビで「HANG OUT」とか「BREAK OUT」が若い人たちにフォーカスを当てていたんで。たとえばMr.OrangeとかB-DASHとか、あの周辺もそうですし、僕の2つ3つ上くらいだとミクスチャー、モダン・ヘヴィネス、ラウドロックの中堅どころみたいな人たちがすごく元気があったなあという気がします。

 

手島 : あの頃はインディーズを紹介する雑誌もいくつかありましたよね。「インディーズマガジン」とか。他にもいろいろあったと思いますが。

印藤 : あとはライヴハウスのマンスリー、フリーパーパーが発信力あったんじゃないですかね。

手島 : まだその頃はそうでしたね。ネットとかは、どうでしたかね?

印藤 : まだ全然じゃないですか。

手島 : あったけど、そんなにって感じですよね。

印藤 : BBSが出来はじめた頃ですよね。ホームページでBBSをつくって。

手島 : 「魔法のiらんど」とか使って携帯サイトとか作っていた時代ですね。

印藤 : 仲のいいバンド同士で相互リンクして。BBSもだんだんTwitterみたいになってくというか。「告知失礼します」みたいな感じになっていって。今はフォロワーやプロフィールから、そこそこいけてる人たちなんだなとかわかったりするんですけど、昔はホームページは明らかに手作り感あるサイトのバンドと、大人の力が入っているホームページとで差があって。もうちょっとあとの話になるんですけど、FLASH(※WEB上で使用することが可能な、音声とアニメーションを組み合わせたコンテンツをつくるソフトの総称)をすごくうまいこと使ってるプラットフォームを持っているバンドはプロフェッショナル感を醸し出してるなあというのはありましたね。

■ 2000年前後の高円寺のライヴ・カルチャー

手島 : 印藤さん、というかマシリトはどんな感じだったんですか?

印藤 : なんでもいいから出させてよっていうところからはじまって、すぐに仲間もできました。サイクロンで初めてライヴをしたときに対バンしたバンドと一緒に共同企画をやったり。あと、年表で辿ると面白いのが、すぐGEARに出たんですよ。今はなき高円寺の。

手島 : 火事でなくなっちゃいましたもんね。

印藤 : 20000Vになるとアンダーグラウンド過ぎて、地下2階まで降りれないって感じなんですけど、GEARってもう少し地元感があって、ちょっとジャンルもオールラウンドというか。

手島 : 思い出してみると、高円寺のあの2店舗の住み分けってかなり絶妙な時期でしたよね。

印藤 : そう、すごく絶妙。

手島 : 20000Vがもう1個下のフロアにあって、ダンジョンをもう1階層下に行くみたいな感じ(笑)。あれは意図があって分かれていたんですか?それとも勝手にそうなったんですかね?

印藤 : うーん、そもそも高円寺のその2店舗と、下北沢屋根裏、渋谷屋根裏、渋谷CYCLONE、ANTIKNOCKが同じグループ会社だった時代で、そこらへんは、僕より前に入社している人に聴いてみると、わかるかもしれないいですね。

手島 : そこらへん、検証してみたいですね。あきらかにそのグループの文化があった時代ですよね。東京の新宿下北高円寺あたりも検証したいですね。

印藤 : 明らかに別の世界でしたね。20000Vの場合はKIRIHITOの早川さんが店長で、アバンギャルド、アンダーグラウンド、ハードコア、みたいなもののアイコンですから。自然とGEARと20000Vは分かれてったんでしょうね。GEARはオールジャンルで。

 

手島 : GEARは、その頃流行のメロコア、ミクスチャー、みたいなものが多いかなと思いつつ、オールラウンドな感じでしたね。

印藤 : CYCLONEよりもキャパが一回り小さいから、地元のバンドマンが集まっている感じはありましたね。僕、中野と杉並の間の鷺宮高校に通っていたんですけど、高円寺って結構近所なイメージなんですよ。中野や池袋辺りにいくのと同じ感覚。それで高円寺で活動するのも面白いなと思ったんですよ。初めてGEARに行ったとき、僕から店員に「もしよかったら次のブッキングしてもらえませんか」って声をかけて。その日、仲間のイベントに僕らが呼ばれていて、ハコ側のオファーで出てたわけじゃなかったんです。そこは裏方も仕事的には狙いどころで、バンドに名刺を渡して「良かったら次も出ないか」って声をかけるのは常套句なんですけど、僕は自分から声かけたんですね。今考えるとアクティブだなと思うんですけど、そのとき声をかけた人が、ANTIKNOCKとGEARの2店舗の店長だった三浦直仁さんだったんですね。現渋谷CYCLONEとGARRETのオーナーであり店長です。で、「こいつおもしろいね」と思ってもらえて、その直後GEARによく出入りするようになったんですよ。その頃、僕は氷川台にある定食屋とカフェのバイトをかけもちしてたんですけど、カフェをやめて定食屋一本になっちゃって、ちょうど「印藤君、良かったらうちで働かない?」てすぐに言われたんですよ。それが22歳になったばかりの頃。面接がANTIKNOCKだったんですよ。ANTIKNOCKも三浦さんが店長をやっているから、「こっちの店舗でもいいかな?」って。もしかすると移動することもあるかもしれないけれどと言われつつ、16年間移動しなかったっていうオチになるんですけれどもね(笑)。

手島 : それまでにANTIKNOCKに行ったり、バンドとして出たりしたことはあったんですか?

印藤 : ANTIKNOCKって、ハードコアも出てれば、ちょっとスラッシュメタルっぽい、メタルの中でも尖った感じのバンドが出ていて、先輩のバンドのサポートベースで出たことがあったんですよ。それが19歳くらいの頃。対バンが新宿URGAの店長の寺内さんがいたOGREだったんですよ。

手島 : URGAって、もうなくなって今はSAMURAIという店になってますね。

印藤 : ええ。それがANTIKNOCK初体験でしたね。GEARの思い出も言っておくと、初めて行ったのは、高3の時、先輩のHELLOWEENのコピーバンドを観に行って、お昼の部だからコピバンも出てよくて。先輩のコピバンのあとのバンドが、ひとりギターでノイズ出していて。もうひとつは、ガリガリの金髪で、もう目が窪んでて、絵に描いたようなジャンキータイプ。実際やっていたかはわかりませんけど(笑)。マイクスタンドが飛んできたんですよ(笑)。「こわいな〜」って。でもなんかこういうの期待してたなと思って。そしたら、カウンターの中に入ったりして、スタッフと楽しそうに上裸で話したりしてるのをみたのが原体験ですね。

手島 : せっかくだから、高円寺の話も訊きたいなと思います。たぶん、僕は印藤さんが高校生くらいの頃か、そのちょっとあとくらいから、仕事的にライヴハウスや高円寺によく行くようになったんですが、2000年前後くらいの高円寺は独特の感じがありましたよね。いつ頃からか高円寺が若者の街になっていて。古着屋とかもいっぱい集まってきてて。僕が上京したとき(1990年頃)よりも街の雰囲気は変わってきていて。あと、高円寺といえばJIROKICHIのような昔ながらのハコもありつつも、今話にでてきたGEARとか20000Vとかがあって。当時20前後の人にとって、高円寺ってどんな街だったんですか? 印藤さんにとっては地元みたいな街でもあるわけですが。

印藤 : ライダースの鋲ジャン、皮パン、モヒカン、ジャラジャラいろいろぶら下がってたりする人たちが夜になるとわらわらといるので、10代の頃はあまり近付いていいゾーンではない雰囲気はありましたね。それは、音楽をやっていたからアンテナに届いたということなのか、それとも僕が地域的に中野とか杉並辺りの高校に通ってたからなのかわからないですけど。

手島 : 全国的には高円寺と言えば純情商店街みたいなイメージがぽわんとあると思うんですけど、音楽の話で言えば尖ってて、音楽やってる人からしたら鋲つき皮ジャンで怖い人が歩いてる、みたいなイメージはありましたね(笑)。

印藤 : なんか、ごった煮感がありますね。僕は22か23くらいで初めてツアーで大阪に行った時に、高円寺感を感じましたね。ごちゃごちゃしてるというか、地元の人も歩いてるし、明らかに訳ありな人とかも歩いてるし、おねえちゃんもケバいしみたいな(笑)。

手島 : 高円寺は、隣の中野、阿佐ヶ谷とはまた違いますよね。

印藤 : 上京した人と、そもそも地元の人たちの、ブレンド具合と言うか。絶妙ですよね。

手島 : 多いですよね、上京してあの辺に住む人。区としては中野だったり杉並だったりするんですけど。その微妙なラインの安い家賃のところに住んでるバンドマンとか。

印藤 : ちょうど、野方から高円寺にかけて、大和町とか。

手島 : そうそう、なぜか大和町多いですね(笑)。

印藤 : 昭和の風景が残っていますよね。入り組んだ路地と木造アパート。話が逸れるんですけど、なんであんな近いのに、あんなに中野や阿佐ヶ谷とカルチャーが違うのか。

手島 : そうそう、違いますよね。今は少しお互い寄ってきた気がしますけど。高円寺が少しソフトになったような気がするし、阿佐ヶ谷にLOFTができたりとか。中野はブロードウェイあるからまた違いますね。

印藤 : ヤンキー的な話で言うと、中野に行くと別の中学や高校のヤンキーに絡まれることが強かったです。なんでかと言うと、中野の人たちも新宿の人も杉並の人、あと江古田の人もブロードウエィを席巻してるというか(笑)。ヤンキーが着るボンタンとか裏ボタンとかがブロードウェイの地下の突き当たりとかだったかな。もうないと思うんですけど「ヤング」っていう店があって(笑)。ちょっととっぽいやつとかが、度胸試しに「裏ボタン買いに行くぞ」みたいな感じで行ってましたね。でも高円寺は面白くて、「おっかない」と思っている対象がもっと年上なんですよ。それが鋲ジャンとかの人たちなんで、もっと得体の知れない人たちで。もっと自分よりも、中高生からしたら5歳も10歳も上の人が「怖い」っていう。そういう人たちが制圧してる街、みたいなイメージ(笑)。

手島 : (笑)。そういえば10年前くらい不思議に思っていたのが、なんで中野にはライブハウスがないんだろうって。あるっちゃあるんですけど。中野heavysick ZEROWALL & MOON STEPとかはありますけど、heavysickとかはどっちかっていうとクラブでしたし。なぜかあんなに立地よくても中野駅周辺にない、新宿から高円寺までにはあんまりないのが不思議ですよね。

印藤 : 不思議ですね。

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〜中央線人間交差点 Vol.3へ続く〜
※「【連載】中央線人間交差点」は毎週金曜日更新予定です。

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