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【連載】中央線人間交差点──ライヴハウスから音楽シーンを切り取った「シーズン1」を振り返る

StoryWriter

毎週金曜日更新で、7回に渡り連載してきた「中央線人間交差点」。

音楽系専門学校で新人開発を担当し、著書『なぜアーティストは生きづらいのか~個性的すぎる才能の活かし方』を執筆した手島将彦さんと、伝説のバンド「マシリト」の中心人物で、ライヴハウス「新宿Antiknock」でブッキングを担当してきた印藤勢さんに、1990年代前半から2010年前後までの音楽シーンを中央線沿いのライヴハウスの視点から語っていただきました。

前回で「シーズン1」は終了。現在「シーズン2」に向けて準備を進めているところです。

新シリーズの連載開始を前に、手島さんと印藤さんの2人へ『StoryWriter』編集人の西澤裕郎がインタビューを行いました。というのも、2人は当時の東京の空気感を知っているからこそたくさんの単語や雰囲気を共有していますが、地方住みだった西澤からすると理解しづらい時代背景なども少なくなかったからです。

ぜひ、2人へのインタビューをお読みいただき、再び「シーズン1」を読み返していただけたら嬉しいです。また、現在準備中の「シーズン2」にもご期待ください!(西澤裕郎)


シーズン1(全7回)はこちらから

手島将彦 × 印藤勢

Vol.1──1994年〜1996年の高校生が感じた音楽と街の空気はこちら
Vol.2──1999〜2000年 高円寺周辺のライヴカルチャー
Vol.3──ライヴハウスが「異次元の世界」だった時代
Vol.4──青春パンク・ムーブメント、ナンバーガールと椎名林檎の功績
Vol.5──The Band Apartの登場、エモの系譜、ACB系の台頭
Vol.6──2005〜2006年、ライヴハウスの状況が変わって来た
Vol.7──ラウド・ロックの登場〜高円寺2店舗、ふたつの「屋根裏」の閉店


地方にいても、どんなアーティストが出たかを手掛かりにするとハコごとのカラーがわかった

──全7回の連載を読んで理解できなかった部分もいくつかあったので、そのあたりを中心に聞かせてください。90年代にはインターネットも携帯電話もなかったじゃないですか? 2人はどういうふうに情報を得ていたんでしょう?

手島将彦(以下、手島):僕は1971年生まれで、ザ・渋谷系と言われるようなレーベルや初期サニーデイ・サービスの音楽をリアルタイムで体験している世代なんですけど、当時はHMV渋谷とか、いくつかの店舗のポップから情報を得ていました。バイヤーさんにも発言力がありましたし。あとは誰もが一度は通ると思うんですけど、ロッキンオン系の雑誌ですね。雑誌が元気だったから「STUDIO VOICE」のようなカルチャー誌で紹介されているものはチェックしていました。

印藤勢(以下、印藤):僕の場合は、ルーツまで遡ると母親ですね。「THE BLUE HEARTS(ザ・ブルーハーツ)がテレビに出ていたから録画しておいたわよ」的なところから始まりました。次に大きいのは図書館ですね。練馬図書館でリクエストカードに欲しいCDを書いて申請すると買ってくれるんですよ。そうすると図書館の棚にどんどん自分の好きなCDが増えていく(笑)。情報源でいえば、高校の転校生のお兄さんが3つくらい離れていて、90年代前後の産業ロックや洋楽、ボン・ジョヴィやガンズ・アンド・ローゼズが大好きだったので、そのお兄さんが作ったカセットテープから知っていきました。あとは映画のサントラも大きかった。「バットマン」とか「ゴーストバスターズ」とか。

手島:オムニバスが多かったですもんね。

印藤:サントラが売れていた気もしますよね。あと当時はクラブ・カルチャーがロックと混ざっていく時期でもあって、普通にギターポップ・ナイトみたいなイベントで情報が入ってくるって感じですかね。

──手島さんのご出身は東京ですか?

手島:生まれは大分の日田というところで、育ちは鹿児島です。東京に出てきたのは1990年ですかね。

──当時、鹿児島にライヴハウスはどれくらいあったんでしょう。

手島:当時ほとんどなかったです。そのころはライヴハウスって言っても、日頃バーをやっているところがライヴハウスになる感じで。そうじゃなければ、ホールですよね。公民館みたいなものも含めると規模はいろいろありました。田舎なので当時のバンドブームの音楽とロカビリーが強いみたいな感じでしたね。

──上京して初めて行ったライヴハウスは覚えていますか?

手島:新宿LOFTです。ずっと行きたかったんですよ。まだ西新宿にあった頃で、遠藤ミチロウのライヴを見に行きました。ロフトといえばミチロウだよねみたいな。

──僕も田舎育ちなんですけど、東京って漫画「ろくでなしブルース」みたいに渋谷には渋谷のカルチャー、池袋には池袋のカルチャーがあるようなイメージがあって。当時、街ごとのカラーは今以上にあったんですか?

手島:チーマーとかが流行っていたのは印藤さんの世代ですか?

印藤:まさに俺の代ですね。カラー(ギャング)はいましたね。音楽の土俵自体がそうだったんですけど、ロックに関して当時はガラの悪いイメージがありました。ライヴハウスって、いわゆる住宅街にはなくて、繁華街にある。当然その場所に対しての恐れもありますけど、そこに集まっている人に勝手に抱いていたイメージは今の比じゃないでしょうね。

──印藤さんが最初にライヴハウスに足を踏み入れたきっかけは?

印藤:先輩ですね。さっきの練馬の図書館の話は中学生の頃の話なんですけど、中学生くらいで自分のツボが開発され始めるじゃないですか? 高校に上がるとレベルの高い先輩がいて、口コミですけどコアな情報を持っていたりする。そういう身近なところから始まった気がします。その後、自分がバンドをやる側になるまでには、さほど時間はかからなかった。あっという間でしたね。

──当時は誰でもライヴハウスに出られるような感じじゃなかったんですよね。

印藤:だからこそ、先輩のことを尊敬することになっていくというか、「お前だってやれるよ」っていう言葉を鵜呑みにしていました。友達とバンドを組んでデモテープを送って、先輩が出ていたライヴハウスに紹介してもらおうとしていた。ロフトとか伝説的なライヴハウス以外はライヴハウスごとの個性があって、割とバンド募集もしていたんです。

手島:あと、入り口として大学生のサークルって入りやすかったですよね? 今もあると思うんですけど、高校や大学の先輩が仕切るうべんとを入り口しに入っていく。ハコの人には失礼かもしれないですけど、ハコごとのランクっていうものがわかってくるんですよね。このジャンルの頂点はロフトだったり、下北沢CLUB Queだったり、下北沢SHELTERだったりっていうのが、だんだんわかってくる。

印藤:ヒエラルキーみたいなのは確かにありましたけど、それよりも特色みたいなものの方が強かった気がしますね。バンド募集の文言に「オールジャンル」って書いてあると逆にレベルが低いというか。昔はもう少し、こういうハコで、こういうバンドを求めていて、まずはデモテープを、っていう流れがあった気がします。

手島:僕がまだ鹿児島にいた頃の情報源として、当時サブカル誌だった「宝島」もありました。そこに東京のライヴハウスが沢山載っていて、原宿のRUIDOとか、今と違って当時のeggmanとか少し芸能な匂いがするポップな感じの人たちが出るところがあって、それと対称的にLOFTとかがあった。誰がどこに出たっていうのが気になっていましたね。屋根裏にRCサクセションが出てたとか、新宿JAMも当時はもっとカラーがはっきりしていた印象があります。地方にいても、どんなアーティストが出たかを手掛かりにするとハコごとのカラーがわかるんですよ。それで勝手に想像をして上京してから行ってみたら、あまり外れていませんでした。

当時はライヴハウスが、今でいうインフルエンサーだった

──この連載がおもしろいなと思うのは、ライヴハウスから見た音楽シーンが語られていることなんですけど、ライヴハウスがバンドの実力を見極める存在として機能していたわけじゃないですか。

手島:2000年入ってくると、随分ゆるくなった気はしていますね。それはレベルが下がったという意味ではなくて、開かれてきたような感覚なんですよね。その頃、僕はミューズ音楽院という音楽の専門学校で働き始めて、学生たちのライヴをよく見に行ってたんですけど、高円寺GEARとか学生のバンドもよく出ていて、渋谷CYCLONEもジャンルによっては出ていて。学生でもわりと出やすくなったんだなっていう気はしながら見ていました。

印藤:僕の世代までは「オーディションに落とされた」っていう話はよく聞きましたけどね。

──オーディションってどんなことをやるんですか?

印藤:比較的空いている土日の昼の部にライヴをやってもらうんです。そのバンドの音楽性に見合った平日のブッキングを選ぶためのテストというか。通常の平日ブッキングはライヴハウス側がしっかりセレクトしているから、どのくらいの演奏力があるのか、どのくらいの人が呼べるのか総合力で見ていました。平日は平常ブッキングのノルマ+10枚くらいでやらされるんですよ。それをクリアすると次にいくみたいな感じなので、万年オーディションみたいなバンドもいました。今は時代も様変わりしてしまって、土日の昼もいいバンドが出ていたりしますよね。ニーズがあるからハコが埋まっちゃう状況なので、今はむしろオーディションなんかやらずにいきなり平日の夜からブッキングして、いきなり見させてもらう。そういうのが多くなりましたね。当時はライヴハウスが、今でいうインフルエンサーだったというか。ブッカーのこの人が組んだ1日は、平日の夜だろうがビシッとしていましたね。まずはそのブッカーのお眼鏡にかなわないといけなかった。

──音楽誌よりも、ライヴハウスのブッキングのほうが信頼性が高かったくらい。

印藤:全然ライヴハウスの方が上でしたね。

手島:レコード会社の人たちも観客動員を見ていたような気がします。ある意味それは正しいんだけど、観客動員が増えるまで待つのは怠慢でもありますよね。観客動員が3人でも、すごいバンドを見つけられるのが新人発掘の役割なんじゃないのって。反面、ライヴハウスだったら200人集められないとねっていうスタンスも根強かった。インディーズ・ブームやバンド・ブームに至るまではオーディションがメインだったけど、すぐに売れそうな新人を探すっていう役割がライヴハウスの機能に加わって、ライヴハウスの価値が上がったんじゃないかなと思うんです。コンテスト形式じゃないライヴハウスから、ボコボコ、スターが出てくるわけですから。

──「新人発掘オーディション」みたいに銘打たなくても、日常的にそれが機能し始めていたっていうことですもんね。

手島:昔からライヴハウスで新人をみつけるというのはあったけど、それがよりメジャーのシステムと合致したというか。

──今だと平日のブッキングイベントにいくと出演者とお客さん3人みたいな状況も意外と多いじゃないですか? 当時はそんなことはなかった?

印藤:いや、ホコ天ブームや第一次バンドブームのときは、町中に誰かしらギターを背負っている人がみたいな状況だったって上の世代の人に聞いたことがあるんですけど、とんでもなくお客さんが平日に入ることもあれば、スカスカな時もあって、今とあまり変わらないみたいです(笑)。でも、ミスチル(Mr.Children)だって誰だって、そういう時期を体感しているはずなんです。ブレイクスルーしたバンドは美談として「いや~お客さんなんていなかったよ、対バン相手が見ているだけだよ」って言うじゃないですか。

手島:今なんかライヴハウスに出るのが当たり前のような感覚になっていますけど、当時は出演する友達がいるってだけで特殊なことでしたからね。「自分の友達のバンドがどこそこのライヴハウスに出るから行くんだ」「そんな友達がいるんだ!」「すごい!」って感覚はありましたね。

印藤:そいつ(友達)を盛り上げて勝たせにいきましたもんね。

手島:そういう特別感はあったと思いますね。

印藤:卓球部が全国大会でるからみんなで応援しに行きましょうみたいな感じ(笑)。

そのブッカーのセンスがありえない角度からくるかどうか

──「2000年前後でストリートがライヴハウスに流れ込んできた」っていう見出しが象徴的でした。当時僕は高校生だったんですけど、地元の長野のCDショップにもインディーズコーナーが充実し始めてきて。ファッション誌にも情報が載っていたりして知ったんですけど、ライヴハウスにストリートが流れ込んだっていうのはどういう感覚だったんですか?

印藤:そういう意味だと、ファッションが1番大きいんじゃないですかね。ブランドとコラボするとか。TOSHI-LOWさんがMCかなんかで、「昔調子に乗ってファッション雑誌に載っていたけど、なんか違うなと思ったし、あの時雑誌に載っていたやつはいなくなっちゃったな。そういう時代もあったんだよね」って言っていましたね。硬派な人でもファッション雑誌に載っていた時代でした。

手島:80年代中頃から90年代初頭はナゴムギャル(※注1)とか、トランスギャル(※注2)とか、いわゆるなにかしらのレーベルにひっついていた女の子たちがライヴハウスに行くような時代でもあったんですよね。ホコ天もそうだけど、そこに集う男の子や女の子って、いわゆる普通の子たちじゃないじゃないですか。さっきの話にもつながるんですけど、クラスの友達のバンドを応援に行くし、応援する人と出ているバンドのファッションが同じなんですよ。いい意味で、ストリートカルチャーのイケてるリスナーとバンドマンが一緒に出ている感じがしたように見えた

※注1 ナゴムギャル=「有頂天」のケラ(現・ケラリーノ・サンドロヴィッチ)主宰で1983年に立ち上げられたインディーズレーベル『ナゴムレコード』所属のアーティストのファン。画像検索はこちら
※注2 トランスギャル=1980年代後半、FOOL’S MATE初代編集長であるYBO2の北村昌士によって設立されたトランスレコードのファン。どちらもかなり熱狂的なファンで、それぞれのレーベルカラーに合った独特で奇抜なファッションだった。画像検索はこちら

 

印藤:そこでカジュアルの定義が少し変わったのかもしれないですよね。

手島:バンドをやっている人がだんだん特殊じゃなくなってくる微妙な境目だと思うんですよ。

印藤:たとえば昔、ロックンローラーを絵に描いてくださいって言ったら、革ジャンを着てチリチリのパーマのジャラジャラしたクラシックな人物像を思い描いていたじゃないですか。ヒップホップもダボダボな服でバンダナ巻いてみたいな。今は大学生みたいな普段着で、スキニーに普通のスニーカーを履いて、ちょっと大きめの緩やかな長袖を着てキャップをかぶっている子なんかもいるわけで、そういう人もラッパーだったりするわけですよ。

──くるりやナンバーガールみたいに、カジュアルな格好でステージに立てるんだっていうのがまだ新鮮な時代でしたからね。

印藤:すごく雑な言い方ですけど、ロックが市民権を得たっていうか。

──いわゆるステレオタイプなロック的な人たちも減っていったんですか。

印藤:それはそれでいるというか、美学・哲学・思想みたいなものがあるので。新宿ANTIKNOCK(以下、アンチノック)なんかは、むしろ濃くなったんじゃないですかね。

手島:ヒップホップも同じですよね。「フリースタイルダンジョン」とかでムーブメントになってメディアやCMで扱われるようになればなるほど、コアなところで「あんなのはにわかだよ」って濃くなっている気がしますね。

印藤:そういう意味では、アンチノックなんかはその最果てですよね。僕らは通っていないけど、2000年くらいのビジュアル系も同じでめっちゃ濃くなっている。ビジュアル系のハコはビジュアル系しか出なくなったし、どんどん濃くなっていって、ビジュアル系のハコにそのファンじゃない人はほとんど来なくなりましたからね。そのくらい振り切っていくっていうのもありますね。最近はそれが薄まってきているって部分もありますよね。そもそもビジュアル系自体がいろんな音楽性を取り入れているっていうこともありますし。

──連載の中で20000Vの火事の話が出て来たじゃないですか。2010年前後って、東京BOREDOMがあったり、かつて20000Vの店長をしていた早川さんがやっているKIRIHITOも新譜を出したり、僕の世代でもその周辺の情報がたくさん入ってきた時期でもありました。そのころのアンチノックはどういう状況だったんでしょう。

手島:BURNING SPIRITS(※注3)、FORWARDとか、その辺が強かったし、ノイズとかアバンギャルドの人たちも一貫して出ていたじゃないですか。永遠に歪んだギターとかを鳴らしている人たちとか。加えて、病気マンとか、アンダーグラウンドですよね。それこそサイクロンには絶対でないバンドたち。ハードコアとかの人が出るとしても、渋谷で出るってことはないようなバンドたち。

※注3BURNING SPIRITS=鉄アレイとDEATH SIDEが立ち上げた1988年から続くシリーズGIG。画像検索はこちら

 

印藤:今よりもライヴハウス自体が待ち合わせ場所だったんじゃないかって。あそこに行けば、あいつがいるみたいな。あそこで遊んでからここに顔だそうみたいな。クラブじゃないですけど、定期的にイベントもやっていたと思うので、この月のこの週の週末はこのイベントがあるとか待ち合わせ場所だったと思いますね。

──手島さんは、アンチノックはよく行っていたんですか?

手島:よくってほどではないですけど行っていましたね。学校で仕事するようになってから、学生がらみで出る人がいると全部行っていたので、10年くらいオールジャンルで見に行っていたんですよ。その中にアンチノックもあったし、時間がある時は全部見ようと思っていたから、そういうときに変なのに出くわす訳ですよね。

──昔は1つのイベントに4バンド出ていたら全部見ていたし新しい発見があったんですけど、最近なかなかそういう気分にならないのはなんででしょうね。

印藤:やっぱり、ネタバレしているからでしょうね。自分が進んで調べていなくても、だいたいこういうバンドが出ているから残りの3バンドもこうだろうっていうのが容易に想像できるじゃないですか。さっきの話みたいに、かつてはライヴハウスやブッカーがインフルエンサー役だったし、ライヴハウス自体がセレクトショップ的に機能していた。だから、ブッキングに関しても、ありえない角度からくるわけですよ。大きく見れば同じ土俵なのかもしれないけど、こんな表現スタイルがあるんだ! って。埋もれているものをセレクトして混ぜてブッキングしていた。今の対バン相手をすぐに調べられるっていうのもいいことだと思いますけどね。お客さんもSNSですぐに調べられるし、バンドが対バン相手のMVを貼ったり丁寧にアナウンスしている場合もありますよね。ネタバレしていることがいいとか悪いとかは置いておいて、そのブッカーのセンスがありえない角度からくるかどうかですよね。

手島:最近って、出演者の平均年齢が多分上がったと思うんですよね。昔はもうちょっと若かったか、もしくは重鎮みたいな人のどっちかだった。今は27歳とか30歳が多くて、わりと良心的ないいラインナップみたいな感じじゃないですか。前はわりと感覚ですけど、21とか22だったと思うんですよ。だから粗いものも多かったし、予想外のものも多かったと思うんですよね。

印藤:圧倒的にそのライヴハウスのブッカーの権威があったし、組み方も豪快でしたよね。今はお客さんに教えてあげようって感じがあります。ブッカーもライヴハウスも、バンドマン相手のビジネスになっちゃったので、バンドマンに嫌われないように平均点を狙っていくわけですよ。だからこれ面白いでしょ! っていうブッキングをし続けているライヴハウスは稀になっちゃったんじゃないですか。僕はそういうDNAはあるつもりではあるんですけど、今ニーズはそこまでないですよね。

──印藤さんがブッカーをされていたときのアンチノックのイメージって、魔界村じゃないけど魑魅魍魎グワーっとバンドがいる感じがしたというか。

印藤:豪快にスイング出来ていたと思いますよ。人によってはホームランになる場合もあるし、歌もののイベントなのにノイズバンドに当てられた人もいた気がします。ブッカーから言わせて貰えば、これでどうだっていうのが大前提でしたからね。

新宿のバンドは「見つけてくれ!」みたいなのは苦手だったかもしれない

──僕も自分でイベントをやるときがあるんですけど、出演者同士の結びつきってそんな簡単にできないのかなとも感じていて。同じライヴハウスに出演していたバンド同士の結びつきって、実際はそんなに生まれていたんですか。

印藤:答えになっているかわからないんですけど、平日の夜のブッキングイベントで、お客さんが3人くらいしかいなくて、対バンが対バンを見るような状況で、ライヴが終わったあとちょっと飲みに行こうよとかなるんですよ。で住んでいる地域が近かったりすると、関係ないところに会話が行くんですよね。そういうローカルトークが人を繋げたり、最終的にしっかり根っこのあるシンパシーが生まれることはあったと思いますよ。あとは共通の知人が出てきたり、共通のスタジオや楽器屋さんがあると、ジャンルを飛び越えて純粋に仲良くなっていく。通っている塾が一緒で仲良くなるとかあるじゃないですか(笑)。

手島:あと、バンドが企画するイベントがいつの頃からかすごく盛況になってきましたよね。みんながやれるようになった。そうなるとやっぱり誰を呼ぶかって話にもなると思うし、その辺ぐらいから仲間って大事よねっていうのが良くも悪くも出てきたのかなった気はしますね。昔ってライヴハウスの方が偉かったってこともあったと思うし、早くワンマンやりたいっていう気持ちの方が大きかったんじゃないかなって。バンドの主催がどんどん増えてきて、つながっていったこともあると思います。

印藤:コミュニケーションや結びつきに関しては、能動的に交わろうとするかどうかですよね。

手島:あの頃はインディーズっていうものに夢があった時代で、ジャンルが違っても、みんなハイスタ(Hi-STANDARD)になりたかったわけですよ。自分たちで行けるところまで行って、渋谷公会堂くらいまでは自力で埋めて、メジャーに自分たちの言いたいこと全部言えるようになってからデビューしようよみたいな。

──2000年代過ぎくらいに、インディーズが注目されて、たくさんバンドがデビューしましたよね。

手島:実際ヒットもすごく出たから、みんな夢を持ちやすかったんでしょうね。そういう意味で、繋がっていくっていうのもあったかもしれないですよね。

印藤:「コミットはしたいけど迎合は嫌だ」みたいな人もいたと思います。一旗あげたいって気持ちはみんな持っていたと思うんですよね。

──MONGOL800のCDが100万枚売れたことは、ライヴハウスシーンでどういう受け止められ方をされていたんでしょう。

印藤:ファンタジー、プラス、宝くじが当たった風にみていましたね。ホリエモンを観ている感覚に近いというか(笑)。

──モンパチはファンタジー感があったんですけど、GOING STEADYはリアリティがあったというか。規模が大きくなるにつれて、それに対する歪みが生まれて、活動休止しちゃうじゃないですか。ゴイステは現場からするとどんな存在だったんですか?

印藤:あの頃はみんなこじらせていたので、もちろん応援はしていたんですけど、「あいつらは行くと思ってたんだよね」より、「まさかあいつらが」っていうのの方が多かったかもしれないですね。

手島:それは全部そうでしょうね。LIMITED RECORDS(以下、リミテッドレコード)からリリースされるバンドも「売れるんだろうけど長くは売れないよね」っていうのはあったと思います。モンパチは別格だったと思いますけど。あと、周期的にやってくる「おれにも、わたしにもできそう」っていうブームがあるじゃないですか。モンパチとか、ゴイステとかもそうですけど、そういう周期がたまにやって来てもらわないと、あんまり盛り上がらないでしょうしね。

──印藤さんの周りにも、業界の人はけっこう青田買いに来ていたんですか?

印藤:もとが魔界村なので、そんなには来なかったですが、一時期the band apartとブッキングで出ていたときは、リミテッドレコードの人が見に来るっていうことはありましたね。新宿のバンドは、「見つけてくれ!」みたいなのは苦手だったかもしれないですね。そういうのは渋谷の方が強かったんじゃないでしょうか。

手島:下北なんかはASIAN KUNG-FU GENERATION前後ぐらいから増えた感じですかね。誰かに拾ってもらいたかったら下北に出ていた方がいいよねって。下北で鳴っている音が好きっていうのももちろんありますけど、そこに出る方が確率が高いよねっていうのがあったと思います。そういう計算ができない人たちが新宿にいたんじゃないかなって。

印藤:そのわりに言っていることがめちゃくちゃなんですよ。下北に出ているバンドと違って俺たちはグランジだから! って、お客さん3人を目の前にやっているわけですよ。結果云々ではなくて、そういう部分が新宿のバンドマンの強みだったかもしれないですし、さっきのバンドマン同士の結びつきっていうのはそういうところに生まれやすいのかもしれないですよね。

手島:1回メジャーに行ってインディーズに戻ってきたバンドって、ワンマンでキャパ200~300だったら埋まるので、結構そういうバンドがスケジュールを埋めるようになってくる。でも、そのバンドは20代の若い人には知られていないみたいな。そうなると、若手や若いお客さんは入る余地がないし、入ったとしても感覚が違うなとなってしまう。っていうのは、どのライヴハウスも気をつけないといけないなと思いますね。

──新宿って人が入れ替わる場所というか、ターミナルじゃないですか。逆に池袋なんかは地元の人が多い感じがするし、渋谷は若い人が多いイメージがある。そういう意味で、新宿って通過点のようなイメージがあるんですよね。だから、いまだに僕なんかからすると、つかみきれないんですよね。

印藤:Twitterで、「新宿っていうのは、いつかこの街を去っていくっていう気持ちをどこかで持ちながら遊んでいる場所」って文章を読んだ時に、わかると思ったんですよ。掃き溜めじゃないけど、そういう刹那はシェアしていたのかもしれないですよね。「印藤さん久しぶりですね!」って街ですれ違ったバンドマンに言われることが多いんです。それはこっちのセリフだって(笑)。どこのハコでも、どこの世界でもあることかもしれないですけど、新宿っていうのはそういう街な気がします。僕はたまたま地元がこの辺だったんですけど、小学校も転校生だらけでしたしね。クラスに外国人もいたし、そういう人と、どうユニティしていくかっていうのに長けていたのかもしれないです。そういう意味で、僕は小学校の頃からブッカーだったのかもしれないですね(笑)。

手島将彦(てしま・まさひこ)
ミュージシャンとしてデビュー後、音楽系専門学校で新人開発を担当。2000年代には年間100本以上のライヴを観て、自らマンスリー・ライヴ・ベントを主催し、数々のアーティストを育成・輩出する。また、2016年には『なぜアーティストは生きづらいのか~個性的すぎる才能の活かし方』(リットーミュージック)を精神科医の本田秀夫氏と共著で出版。アマゾンの音楽一般分野で1位を獲得するなど、大きな反響を得る。
https://teshimamasahiko.co
印藤勢(いんどう・せい)
1978年生まれ。インディーズシーンで伝説のバンド「マシリト」(2009年活動休止。2017年再開)の中心人物にして、長年ライヴハウス「新宿Antiknock」でブッキングを担当してきた、新宿・中央線界隈のライヴハウス・シーンではかなり長命な人物である。最近は独立してミュージシャン向けの無料相談等も行なっている。9sari groupが経営するカフェで、猫&キッチン担当。
Twitterアカウント @SEIWITH
〜中央線人間交差点 シーズン2へ続く〜

※「【連載】中央線人間交差点」は毎週金曜日更新予定です。

お願い
「中央線人間交差点」の内容をより詳細に複合的なものにするため、読者の方のエピソード、感想、昔の写真などご提供いただける方を探しております。ご協力くださる方がいらっしゃいましたら、info@storywriter.co.jp までご連絡いただけますと幸いです。なにとぞよろしくおねがいいたします。

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