【新連載】中央線人間交差点 Vol.1──1994年〜1996年の高校生が感じた音楽と街の空気

2017年はHi-standardが18年ぶりにアルバム『The Gift』をリリースし、そのリリース方法も含めて大きな話題をさらいましたが、最近ライヴハウス・シーンやフェス等で注目を集めているバンドたちの中にも、Hi-standardをはじめとする2000年前後に活躍したバンドたちの影響を、多かれ少なかれ受けているものも少なくありません。

しかし、その2000年前後から現在に至るまで、そうしたバンドたちがどのような状況や、街から生まれてきたのか、ということがきちんと語られることはあまり多くなかったかもしれません。あえて言うならば、多くの音楽メディアは渋谷や下北沢を中心にした視点でシーンを切り取ることが多く、新宿や高円寺などの中央線のライヴシーンをその街の視点からきちんと取り上げてこなかったということもあるかもしれません。

ここでは、その2000年前後の中央線沿線のライヴハウス・シーンと街の空気のようなものを、これも偏った視点になってしまうのかもしれませんが、とりあげてみたいと思います。これは、過去を懐かしむためのものではなくて、これから新しい音楽とライヴハウス・シーンをつくっていくために、これまでの積み重ねを確かめておく試みのひとつです。(手島将彦)

手島将彦(てしま・まさひこ)
ミュージシャンとしてデビュー後、音楽系専門学校で新人開発を担当。2000年代には年間100本以上のライヴを観て、自らマンスリー・ライヴ・ベントを主催し、数々のアーティストを育成・輩出する。また、2016年には『なぜアーティストは生きづらいのか~個性的すぎる才能の活かし方』(リットーミュージック)を精神科医の本田秀夫氏と共著で出版。アマゾンの音楽一般分野で1位を獲得するなど、大きな反響を得る。
https://teshimamasahiko.co
印藤勢(いんどう・せい)
1978年生まれ。インディーズシーンで伝説のバンド「マシリト」(2009年活動休止。2017年再開)の中心人物にして、長年ライヴハウス「新宿Antiknock」でブッキングを担当してきた、新宿・中央線界隈のライヴハウス・シーンではかなり長命な人物である。最近は独立してミュージシャン向けの無料相談等も行なっている。9sari groupが経営するカフェで、猫&キッチン担当。
Twitterアカウント @SEIWITH

連載第1回:1994年〜1996年

東京—中央線界隈・練馬・豊玉の高校生とバンド

手島将彦(以下、手島) : 印藤さんが新宿と関わりはじめたのはいつぐらいからですか?

印藤勢(以下、印藤) : 新宿に足をのばすようになったのは、高校生の頃ですね。僕は練馬の豊玉というところの出身で、練馬区の中でもかなり中野寄りの場所なんですけど、小学校の頃は中野とか高円寺に行くのがけっこう大冒険でした。中学生になると、池袋に行くようになって、池袋の楽器屋に入り浸るようになりました。で、高校生になって年上の人たちとバンドを組んで、現在のWild Side東京、昔の新宿HEAD POWERに出たのが、初めてのライヴハウス体験ですね。

手島 : それが、だいたい1994〜6年という頃ですね?

印藤 : そのライヴハウスの向かいに厚生年金会館があって、よく外タレのバンドが公演やっていたんです。初めて観に行ったのがドイツのHelloweenでした。僕のルーツになっているバンドなんですけど、それを厚生年金会館で観て、はじめて自分がライヴをやったのが、その向かいにある新宿HEAD POWERというのも、なんか縁だなあと思いましたね。

 

手島 : 新宿HEAD POWERというと、作りが面白いところですよね?

印藤 : 昔、ストリップ小屋だったんですよね。それで、作りがちょっといかがわしい感じになっている。当時はライヴハウスで働くことや、ブッキングの意味もわからなかったんですけど、ライヴハウスに出入りするようになってから、ブッカーの人とか店長さんとかマネージャーさんとか、ハコの中にもいろんな役職とか役割があるんだなあ、と初めて知りました。

手島 : 東京というか、「豊玉」でも良いんですけど、その頃の音楽シーンってどうだったんですか?

印藤 : 一般的なところだと、小室哲哉が一世を風靡していましたね。高校1年の頃はアムラーが台頭していて。僕の頃はBOOWYブルーハーツも解散していて、かろうじてB’z。僕の中では3Bと呼んでますが(笑)。B’zがちょうど、アメリカンハードロック色が強くなっていく頃ですね。ライヴハウスではどんなのが流行ってたかというと、洋楽と邦楽のバランスが悪かった時代でした。大ヒットを飛ばしている洋楽は、僕が中学の頃はGuns N’ Rosesで、高校入ってからはNirvana。Nirvanaになると、ちょっと年上かな、って感じですね。わかる訳ないじゃないですか、高校生にあの感じが。

手島 : いきなりはちょっと難しいでしょうね。

印藤 : そう。いきなりあれは難しい。僕はたまたまみんなが聴かないHelloweenとか、メタルバンドにはまっちゃったんで、まあ、友だちがいなかったんですよ(笑)。

手島 : オルタナ全盛の時代でしたから、日本の洋楽ファンの中ではメタルが1番不遇の時代だったかもしれないですね。ある意味、オルタナにとってのの仮想敵のひとつがヘビーメタルですしね。

印藤 : そうですね。ただ、僕が恵まれてたのはHelloweenを聴きつつもNirvanaも聴いて、The Offspringも聴いて、という感じでいられたことですかね。まあ、あと、ヤンキーの人たちが、サーフィンなんてしたことないんだけど、サーファーのような格好をしていて、アメリカのサーフ・ロックとかスケート・パンクとか、NOFXとかPENNYWISEとかあの辺を教えてくれましたね。あと、ウチの高校だけかもしれないですけど、Hi-Standardは、僕の1個下の学年なんですよ。僕のイメージではメロディック・パンクというか、国産のメロコアを追いかけようとするのは僕より1個下くらい。

手島 : ハイスタの『MAKING THE ROAD』がインディーズで100万枚売れるのが1999年なんですよ。そうすると、95年前後はもう売れはじめてはいるんだけど、まだ「100万枚売れた!」みたいなところにまでは突入していないくらいの頃なんですかね。

印藤 : ハイスタはメロコアでしたけど、ハイスタ周りはけっこうハードコアがいるじゃないですか。COCOBATとか。で、そのルーツってなにかというと、もとをただせばANTHRAXとかなんでしょうけど、そのときの海外のメタルシーンではPanteraですね。あとMachine Head。あの辺のまあ、いわゆるモダン・ヘヴィネスとか言われるところですね。ハイスタ的なバンドも含めて、その辺とも対バンすることにもなるんです。僕のイメージでは、僕から3つ4つ上のお兄さんたちのメタル、ハードコア、モダン・ヘヴィネスなサウンドの対バンのお兄さんたちがいた、というかんじですね。

手島 : たとえば、METALLICAはどうだったんですか? 僕のイメージでは、オルタナ・ブームのなかでも、なぜかMETALLICAだけはオルタナファンからも認められる、みたいな風潮があった気がするんですけど。

印藤 :Black Album』ですね。あと、良いのか悪いのかわからないですが、METALLICAというと「空耳アワー」ですね(笑)。

手島 : 「寿司、風呂、寝ろ!」とかのあれですね(笑)。

印藤 : そう、それです。教科書的に誰しもがMETALLICAを通っていて、会話のきっかけや、メタルの代名詞として使ってた感じもありますね。

■80年代〜90年代ロックの変遷

手島 : 印藤勢というフィルターを通してでかまわないんですけど、その当時の東京、中央線界隈、練馬・豊玉をもう少し振り返ってみたいのですが。

印藤 : 面白いことにS53年世代(1978年生まれ)ってヒップホップが凄いんですよ。そういうカテゴリがあるくらい、有名なラッパーがいっぱいいるんですよね(*般若MC 漢AK-69など、かなり多数の有名ラッパーが昭和53年生まれ)。高校生の時にはダンスやヒップホップやDJが流行ってました。エレキギターを背負ってるほうが珍しくて、「おまえ田舎のヤンキーかよ」みたいに見られちゃう感じもありましたよ(笑)。エレキギターって、中学生のヤンキー=「X JAPANが好き」みたいなイメージとリンクしちゃうところがあって。そのあとNirvanaとかハイスタとか、あえて言うなら大味なギターサウンドのロックが流行ったときに、エレキギターを奏法としてピロピロやっていたシーンが一気に吹き飛ばされちゃいましたね。

手島 : THE BLUE HEARTSで1回シンプルなロックが広がったんだけど、その後X JAPANとかのそういうピロピロと早弾きなどのテクニカルなバンドがメインになり、またそういうのじゃないロックが来て吹き飛ばされた、と。

印藤 : 僕より2つ3つ下になると、今度はLUNA SEAとかL’Arc-en-Cielが出てくるんです。ちょっと垢抜けたキャッチーなビジュアル系ですね。僕の世代のビジュアル系は、ただただ禍々しい、ちょっとカルトな存在でした。毒々しい、というのが、ほぼほぼビジュアル系の定義だったと思います。

手島 : どんどん過激になっていきましたからね。仮にBOOWY辺りをビジュアルの出発点とするならば、BUCK-TICKが出てきてより過剰になって、それがさらに過激なX JAPANとか、COLORとかみたいなところまで行ってしまいましたからね。そのシーンとは印藤少年はリンクしなかったんですか?

印藤 : 僕は、半分冗談で言いますけど、「印藤ギター弾けるらしいぜ」とヤンキーの家に呼び出されて、X JAPANの「CEREBRATION」のTAB譜を渡され。ヤンキーってなぜか形から入るからTAB譜だけは持ってて、「これのイントロを弾いてみて」と言われて弾いた経験があって、ちょっとトラウマなんですよ(笑)。

手島 :(笑)。

印藤 : ほんとに、いわゆる、エレキギター=ヤンキーみたいな、最後の最後の世代じゃないですかね。地方の様子はわからないですけど。

手島 : 東京でもそうなんですね。僕はもうその頃はもっと年上の大人になっちゃっているから、その辺のころの10代の感じが1番わからないかもしれないです。

印藤 : Helloweenみたいなジャーマン・メタルの要素って、X JAPANとかにもふんだんにあるはずなんですけど、なんでこんな格好でシンパを作っていけるんだろうと解せなかったですね。

手島 : 東京のその頃の高校生のヤンキーはわりとそういうかんじだったんですかね?

印藤 : どうなんですかね。X JAPAN的なのはわりと中学生の頃で、高校生になってくると、アムラー(※安室奈美恵を模倣したファッションする人たちの総称。1995年に現れ、1996年をピークに女性の間で流行した)に対抗する、チーマーとか。語弊があるかもしれないけど、X JAPANが持っているような「暴走族感」はなくなってくるんですよね。ヤンキー同士が話すきっかけにX JAPANがあったのは、僕が中学まででしたかね。

手島 : 中学というと、91〜93年くらいということですね。今90年代中頃の話を聴いてるとこで、漠然とした質問なんですけど、その頃の世の中の雰囲気って、どう感じてたんですか?

印藤 : やたらカラフル、というかんじですね。すごくカラフル。

手島 : あー、なんかわかる気がします。僕はそういう実感をともなった言葉って残すべきだな、て思うんですよ。昔話というわけじゃなくて、そういういろんな実感の積み重ねで今があって、次の未来があるっていうか。

印藤 : 「浮かれてる」とはそんなに思ったことはないですけれど。ただまあ、商業的にあの手この手で国産物として発信してるなあとは思いましたね。

■90年代に東京で高校生がバンドをやるということ

手島 : あと、高校生でライヴハウスに出るのは、気持ちのハードルは高い低いで言うとどうでしたか?

印藤 : これはもしかしたら「東京あるある」かもしれないんですけど、ヤンキーの話に戻っちゃうんですが、パー券(※「パーティー券」の略。パーティへの参加券。学校や街など直接手売りで販売されることが多かった)とか、そういう懐かしい制度があるじゃないですか? 彼らは彼らなりに本気だとは思うんですけど、近所にある、スタジオに併設されてるようなライヴスペースで、X JAPANや、BOOWYのコピーとかやるようなところもライヴハウスって呼んでました。僕はそういうところにはあまり関係してなくて、オリジナル曲をやるやつが対バンで出る、いわゆる普通のライヴハウスに出てましたが、大きく分けるとこの2種類になりますね。ヤンキー独特のコミュニティのライヴのやり方と、デモテープをつくってライヴハウスに持っていって、ブッキングしてもらうというふたつの違い。

手島 : その頃のライヴハウスに出るためのオーディションとか「昼の部」って、新宿HEAD POWERくらいのランク、というと語弊があるかもしれませんが、そういうのはあったんですか?

印藤 : ありました。4バンドで30分ステージの時間をもらって。僕も裏方やるようになってから気をつけるようにしてるんですけど、オーディションていう言葉の響き? たいていの人は人生ではじめてなわけじゃないですか。実際にやってみると、まずライヴハウスの人が1回見て、今後夜の部にどういうバンドと当てていけばいいのかとか、動員力とか、そういうところを見る場所なんだなというのがわかるんですけど、イメージとしては落ちたらどうしようとか、そういうかんじの名残はまだ全然ありましたね。

手島 : 高校のときはけっこうライヴやってたんですか?

印藤 : やりました。だいたい、どんなに少なくても2ヶ月に1回はやってました。

手島 : 高校生としてはけっこうな回数ですね。

印藤 : オリジナルでやってるバンドで、高校生だとけっこうなハイペースでしたね。5つ6つ年上の人と組んでいたから可能だった面もあったのですが、僕が曲を書くようになってからは、イニシアチブが僕の方に向かうようになるんです。そうすると、バンド内だけでなく、外部の活動に関しても「印ちゃんが言うなら、いいよ」ってなって。

手島 : 年上の人たちも寛容だったんですね。あまり年齢関係ないというか。

印藤 : そうですね。僕が生まれる時代間違っちゃったんじゃないの? ていうタイプで、10歳くらい上の人と話をするほうが楽しかったので、すごい可愛がられてたんだなと思いますね。で、曲が作れてギターがそこそこ弾けて。高校生だから動員ができるじゃないですか。そうすると、おまえ、いいねえ、任せるよってなったんですね。当時、あとは目黒のLIVE STATIONとか。あいまだにそうらしいんですけど、吉祥寺のクレシェンド? あそこって学校が借りて、そこで軽音楽部の発表をやる、みたいなのがあって。僕らのまわりの学校の人たちはそこでもやってたかなあ。

手島 : そして、卒業。

印藤 : ギリギリ卒業して、そのときやってたメタルバンドのヴォーカルが3つ年上の女性だったんですけど、同じバンドのベース兼リーダーと付合ってたんです。ただ、僕がバンドのイニシアチブを握ってしまったので、そのベースが脱退しちゃって、そのボーカルの女性と僕が付合うことになりまして。その人の家の事情が悲惨で、僕の家にかくまったりしていたんです。実は僕、反抗期がなかったんですけど、そこでバーンと来まして。彼女と駆け落ちのように家出しました。「音楽でやっていくんだ」という気持ちしかなかったですね。今もですけど。それから同棲をはじめて。そのままライヴ活動は続けましたが、プライベートがそんな感じだから、バランスが崩れて、そのバンドは解散しちゃいましたね。19歳のころかな。

手島 : 話が戻っちゃうんですけど、そもそもそのバンドはどうやって組んだんですか?

ライヴハウスに貼ってる短冊形のメンバー募集

印藤 : 今はもうないんですが、豊島園の方にユーフォニックていうちょっとしたラブホテルみたいなとこを改造したスタジオがあったんですよ。地元の仲間たちはみんなそこに入っていて、そこのメンバー募集ですね。昔、紙の下の方が短冊上に切り込みがしてある募集用紙に、実家の番号とかを書いて貼っていたんですよ。「僕はこういうバンドが好きで、ギタリストです。若いです。オリジナルのバンドをやりたいので、加入希望か、もしくはメンバー募集します」みたいな。で、2週間もたたないくらいで電話がかかってきて。環八にあるガストで会いました。ユーフォニックは地元のみんなが知ってるとこだったから、そこで連絡してくるやつは練馬区界隈のやつだろうという読みがあって。それがあたって、次の週からもうスタジオに入ってました。

 

手島 : わりと、その当時の高校生としては珍しい方でしたか?

印藤 : そうとう珍しい方でしたね。

手島 : 普通はそうじゃないですよね。楽器をやっていたとしても。

印藤 : そうなんですよ。繰り返しになっちゃいますけど、僕くらいしか洋楽聴いていなかったんで。

手島 : その当時でもそうですか。最初は邦楽から入りやすいですよね。

印藤 : 洋楽の中でも超ニッチなサブジャンルじゃないですか。ジャーマンメタルなんて(笑)。

手島 : それがまたVan Halenとかなら違うのかもしれないですけど。

印藤 : そうですね。それは、僕の2つ3つ上の世代なんですよね。

手島 : MTV的な感じで、あの曲は知ってるよ、みたいな感じかもしれないですけど。ジャーマン・メタルだとねえ(笑)。

印藤 : そうなんですよ。中学の時に転校してきたフカザワくんという子がいたんですけど、そのお兄さんが好きだったんですよ。その頃洋楽という括りというよりは、「世界のスーパースター」ということでMichael Jacksonの特集とかを深夜の番組でやっていて、それを夜更かしして観てたんですけど、それでそのフカザワ君と話が合って。そこからそのお兄さんの自主製作オムニバスなカセットテープ、自分でいろんな曲ダビングしてあるテープを聴かせてもらって。そこにDef LeppardとかHelloweenとかが入ってましたね。

手島 : その頃の服装はどうだったんですか?? 高校は都立だと自由な私服ですよね?

印藤 : 僕、昔から、髪は今も長いんですけど、メタルの格好がかっこいいとは思ったことがないんですよ。

手島 : そこはメタラーじゃないんですね。

印藤 : 「なんでカジュアルにできないんだろう?」って思っていましたね。

手島 : その頃の都立の高校生ってどんな感じだったんですか?

印藤 : 腰履きが流行りはじめましたね。Dickies腰履きで。

手島 : ああー、あとさっきちょっと出てきましたけど、アムラーとかですか。

印藤 : そうですね。あと僕のまわりだとGREENDAYとか、あんな感じのファッションでしたね。あと、アムラーに対抗してサーファーみたいなかんじとか。まあ、いわゆる当時のキムタク崩れみたいなのとか。サーファーっぽいのが多かったかもしれないですね。

■マシリト結成秘話

手島 : なるほど。で、また話を戻しますけど、バンドがうまく行かなくなっちゃったわけですよね。その後はどんなかんじでした?

印藤 : まあ、「家出なう」なんで、どうしようかなあ、て状況だったんですけど、やっぱりそうなると彼女ともうまくいかなくなり、彼女はライヴハウスで出会った、違うバンドのVo&Gと付き合いはじめて。当時で言えばRage Against the Machineみたいな、初期のTOOLみたいな。TOOLは今でこそ違いますけど、いわゆるミクスチャーですね、そういうバンドの。

手島 : そのころもう多かったんですか?

印藤 : 増えはじめた、という時期ですね。とくに渋谷のサイクロンとか。

手島 : それが1997〜8年とかそのあたりですね?

印藤 : そうですね僕が19〜20歳ですね。で、同棲してたんだけど家に帰ってこなくなって。当時古本屋で働いてたんですけど、そこによく遊びにきてくれてたのが同じ高校の1個下の後輩の、マシリトのベースなんですよ。

手島 : あ、そこからなんですね!

 

印藤 : 僕はあまり認識してなかったんですけど、いつも女連れてるし、なんか病んでる奴だなあって。そういえば1回バイト先に入れたことがあったな。すぐクビになってましたけどね(笑)。なんか事故で親友を亡くした時期で、すごくふさぎ込んでいて。氷川台のファミレスのジョナサンで、夜な夜な話して励まし続けたんですよね。危険を察知したのか、「おまえは1人じゃねえよ、やろうと思えばなんでもやれるよ」って。で、無理矢理ベースを持たせてスタジオに入ったんですよ。彼はラルクとかのビジュアル系の友だちとふざけて半分コピーの謎なバンドやってたんですよ。ギターをやってたんだけど、全く弾けてなくて、背負ってるってだけの感じで。本気でオリジナルやってる側とレクリエーションでやりながらも夢をみてるやつの2つあって、彼は後者の方だったんですけど、俺はギタリストなんでベースをやって欲しいとベースを弾かせましたね。はじめはふたりでドラムマシーンとか使ってスタジオ入ってましたね。

手島 : それが19〜20歳ですか。

印藤 : そうです。俺、軽音楽部だったんで、後輩の繋がりが強かったんですよ。で、さらにもう1個下の、今も活動してますけどエビタイガーってバンドのドラマーが、僕の方のバンドに加わって、3ピースになって。でも僕はギタリストなんで、歌いたいわけじゃなくて。でも、歌うのが嫌いじゃないんですよ。曲作って歌うのは苦じゃなかったんで、とりあえず仮で歌って。いまでもそうなんすけど(笑)。

手島 : そうなんですね(笑)。で、そんなこんなで、いつ頃から本格的に再始動するんですか?

印藤 : めちゃくちゃ早いですよ。ライヴ・ジャンキーなんで(笑)。求められてもいないのに、前やってたバンドのツテを使ったりして。あと、バンドって動いてないようでも「観に来てよ」で観に行ったりしてるとなんか繋がって。謎に池袋のサイバーとかも出てました。

手島 : ビジュアル系のハコじゃないですか! その頃ってもう完全にサイバーってV系なんじゃないですか?

印藤 : その頃はまだビジュアル系が今ほどパキッとカテゴライズされてなくてグレーゾーンがありましたね。ハードロックとヘビーメタルもひょっとしたらブッキングしてもらえるかもしれない、みたいな。

手島 : なるほどー。言われてみたらそうだったかもしれないなあ。

印藤 : 神楽坂のエクスプロージョン/ディメンションとかの系列店でもやりましたね。マシリトはもうメタルとかじゃないし、しかも、ベースがほぼ素人なんで、NievanaとかSound Gardenとか、そういったものに日本語をのせて。あいかわらず僕はマイナーコードなんですけど、ギターソロだけピロピロしてる、みたいな。不思議なバンドでしたね。

〜中央線人間交差点 Vol.2へ続く〜
※「【連載】中央線人間交差点」は毎週金曜日更新予定です。

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