
ドーパミン中毒から抜け出したい。
わたしは高校受験が終わるまで携帯電話を持っておらず、周りの友人たちよりも携帯電話を持ち始めるのが遅かった。はずなのに、いまわたしがスマートフォンを持って過ごしているこの時間を、あのころのわたしがどう過ごしていたかを思い出せない。
無意識にスマホを手に取り、SNSを開く。なにか目的があるときももちろんあるが、目的がないときのほうが多いかもしれない。最近気が付いたことは、そういう時間を過ごしているとき、わたしは大抵疲れているときだということだ。
ドーパミンは、欲求が満たされたときに分泌されて、やる気や意欲、集中力が上がったり、多幸感を感じたりするらしい。ただその反面、ドーパミンが多く分泌される行動には中毒性もあるそうだ。
現代では、手っ取り早くドーパミンを分泌させることができるようになったのだと思う。
スマートフォンを持ち始めるまで、わたしが音楽を知るきっかけは、テレビ番組が多かったように思う。いまは、SNSを通じて指先ひとつで無作為に流れ込んできて、自動的に頭に焼き付くほどに、音楽への入口が増えている。CDショップで買ってきたCDをCDプレーヤーに入れて再生ボタンを押して、歌詞カードを見ながら聴いていた音楽も、いまは指先ひとつでダウンロードして持ち歩いて、いつでもどこでも聴けるようになった。音楽も、本も、漫画も、ドラマも、なんだって指先ひとつで勝手に知ることができる。コロナ禍の影響もあるだろう。ウイルスの蔓延を食い止めるため、不要な外出を控えることが推奨された結果、家から出なくてもエンターテインメントを享受することができるようになった。
エンタメを仕事としているわたしにとって、それはすごく有難いことでもあった。ドーパミンの分泌が手っ取り早くなること、つまりエンタメを手軽に手に取ることができる、取ってもらうことができるということは、自分自身のことや自分がやっているエンタメのことを広めるチャンスが増えるということだ。
ただその分、どうしてもわたしは、寂しくも感じてしまう。
冒頭に書いたとおり、わたしは疲れているとき、決まってSNSを延々と見てしまう。ただ、その真っ最中にはその自覚がほとんどない。何十分、何時間、と時間が過ぎた後にやっと気が付く。あれ、わたしいまなにしてたっけ。帰ってきてからどれくらい経ったっけ。この時間、もっと他のことをやれば良かったのに。大好きなはずの音楽やエンタメのことを考えているはずなのに、そんな風に思ってしまうことが増えていた。
そんなとき、SNSで流れてきた『ドーパミン中毒』という言葉にはっとした。
SNSそのものが悪いのではない。そして、わたしと同じ行動をする人全員が悪いわけでも全くない。ただわたしは、大好きな音楽やエンタメを、ただ自分の脳内に垂れ流しにしてしまっていることを、虚しく思った。疲れ果てた帰り道の、家に着くまでの時間が早く過ぎることを望んだり、眠れない夜に眠くなることを願ったり、そういう時間のただの暇つぶし、一瞬の快楽としてエンタメを使っていることが、わたしはなんだか虚しかった。好きなものに対して虚しさを感じるなんて、あまりにも悲しい。
わたしはまず、『音楽を聞かない』ことから始めた。
100%音楽を聞かないというよりは、『聴きたい』『見たい』『知りたい』という気持ちがないときはエンタメから少しだけ離れてみる。それまで、家を出ると同時にヘッドホンを付けて音楽を聞いていた。電車に乗ると同時にSNSを開いていた。それを、辞めてみる。
そうすると、脳と五感が、以前よりよく動くようになった気がした。
エンタメを、ただ目的もなく始まりも終わりも曖昧なまま延々と享受するより、もっとクリアな気持ちで楽しめるようになった気がする。
ふと聴きたい曲を思い出してヘッドホンを着ける。歩く速度に合う音楽や、目の前の景色に合う音楽を聴くために再生ボタンを押す。好きなバンドやアイドルの写真や映像、言葉を観るためにSNSを開く。
スマートフォンを家のなかでも持ち歩かないとなんだか不安になったり、外出前にヘッドホンを忘れて急いで家に取りに帰ったり、外出中にヘッドホンの充電が切れて焦ったりするより、よっぽどいまのほうがエンタメを大切に思えているような気がする。もちろん、だらだらとSNSを見ているときに、素敵なエンタメに出会えるときだってきっとある。でもその時間を大切にするには、それをしない時間がないと、ほんとうに素敵なものすらもスワイプで飛ばしてしまうような気が、ドーパミン中毒に侵されてしまうような気がする。
些細な変化だけれど、わたしはいまの、わたしとエンタメの距離感が好きだ。そして、いまわたしが手間をかけて聴きたい音楽や、知りたい、観たいエンタメがあるように、誰かにとってわたし自身やわたしがやっている音楽も、手間をかけても好きでいたい音楽やエンタメになりたい。



