来ない。
待てど暮らせど、ユミさんが、来ない。時計の針は18時30分を指している。
いつの間にか店内は満員になっており、私の左横だけが1席空いている。なんで女性は遅刻してくれるのだろうか。10分遅れると言ったのに3倍遅れているではないか。
私はため息をつき、店内を見渡した。カウンターにはカップルと思わしき男女が多い。金髪で長いつけまつげをしたギャルが「ウケる! 超ウケる!」と両手を叩いている。何を話しているかはわからないが、そんなに面白いかといえば、たぶんたいして面白くない。私は、徐々に心が荒んでくるのを感じていた。
そのとき、「お客さん、何か飲みますか?」と声がした。顔を上げると、女性の店員さんがこちらを見ている。束ねた黒髪、太い眉毛。八重歯が光る口元、そして巨乳。なんて、カワイイ子なんだ。まるで、全盛期の石野真子のようじゃないか。「お連れ様が来るまで、お先に一杯いかがですか?」。真子がそう言って笑った。私は、素直に頷くと、生ビールの中ジョッキをオーダーした。
「はい、喜んで!」満面の笑みでそう応える真子。キビキビとした動きとハキハキした受け答え。年齢は20代前半だろうか。やっぱり、若さって素晴らしい。アラフォーの女性に待ちぼうけを食らっているアラフィフな自分がなんだかむなしくなってきた。そうだ、今夜は真子と飲むことにしよう。中年同士の大人のお付き合いなんて、やめだやめだ。ビアジョッキを持ってこちらにやってくる真子。私は、ジョッキを受け取ると、場内指名したい旨を伝えた。
「は? 指名って?」
怪訝そうな顔をする真子。しまった。ここはキャバクラでもガールズバーでもマハラジャでもない。ごくごく普通の大衆居酒屋だった。私は、初デートに気取らず、気さくなお店をチョイスすることで、フランクで接しやすい男であることを示そうとこの店を予約していたのだった。そんなお店をキャバクラ扱いしてしまうとは、なんという愚か者よ。慌ててジョークであることを告げる私。愛想笑いをしながら逃げるように厨房に去っていく真子。もう2度と、オーダーを取りに来てくれないかもしれない。私は深く後悔しながら、ビールを一気に飲み干し、ジョッキをカウンターの上に静かに置いた。
その瞬間、店員が大きな声を上げた。「いらっしゃいませー! お待ち合わせですか?」。入口を見ると、ユミさんがあたりを見渡していた。私は、カウンターから立ち上がり、手を振ってここにいることを知らせた。ユミさんはすぐに気が付いたようで、私に手を振る。そして、何やら後ろを向き声をかけている。すると、背後から男性が現れた。
ん?
男性と連れ添ってこちらに向かってくるユミさん。185cmぐらいはあるだろうか? 男は長身かつ細身で、短く綺麗に刈り込まれた髪には少し白いものが交じっている。年齢はかなり私より上かもしれない。だとしたら、失礼のないようにしなくては。いや、違う違う、そうじゃ、そうじゃない。なんで、男が、来るのだ。
「あれ? 三名様ですか? じゃあお隣の席、使ってください」。店員さんがそう言った。3名じゃ、ない。私とユミさんの2人きりで、飲む約束をしていたのに。私の左隣は、ひと席だけ空いている。左利きのユミさんのため、事前にカウンターの左端を予約してもらっていたのだ。そんなこちらの気遣いをまったく無にするように、男連れでやってきたユミさん。私は1つ右の席にズレて2つの席を空けた。すると、2人は少し譲り合うようにして、男が端に、真ん中にユミさんが座った。座る前にこちらを見て、「どうも、どうも」と愛想よく会釈する男。黙ってちょこんと頭を下げる私。
なんだ、この人。
「遅れてすみません。アセさんのことを話したら、この人が一緒に行きたいって言うものだから」
と、男と私を交互に見ながら話すユミさん。
「どうも、水戸です」
男の名は、ミト。水戸黄門の、ミト。ていうか、誰。ドリンクメニューを水戸に見せていたユミさんが、こちらを振り向いて唐突に言った。
「パートナーです」
は?
「今、同居してるんです」
はあ?
「3年目だっけ?」
はああ?
何食わぬ顔で頷く水戸。パートナーってなんだ。ていうか同居っていうことはもう夫婦みたいなものっていうことじゃないのか。しかも3年目。所謂、内縁の夫ということじゃないのか。私の頭はグラグラしてきた。とんでとんでとんでとんでとんで、まわってまわってまわってまわる、私の脳内。喉が渇いてしょうがない。私はビールを一気に飲み干すと、おかわりを頼んだ。同時に、ユミさんが生ビールとトマトジュースを頼むと、すぐにテーブルに届いた。水戸はお酒が飲みないのか、仕事があって飲まないのか。わからない。というか、何もかもわからない。
「とりあえず、乾杯しましょ! カンパーイ!」
ジョッキを掲げるユミさんに、私は震える手でジョッキ持ち上げてカチンと合わせた。次に水戸のトマトジュースが入ったグラスにジョッキを合わせるユミさん。水戸は私に向かってグラスを掲げている。私も渋々それに応えて、鉛のように重く感じるジョッキを上げて応えた。
それからしばらく、私の記憶はまったく無い。ユミさんは私と水戸を交互に見ながらあれこれといろんな話題について話していたようだ。たまに頭をよぎったのは、東日本の母こと、占い師のおばちゃま、いやあのインチキ占いババアの顔。「彼氏はいない」と断言して、さらに「来年結婚する」とまで言ったのに。まるで当たってないではないか。
いつのまにか、店に入って2時間が経っていた。最初の30分は私だけだったから、実質1時間半だが、お会計は普通に3等分して支払った。本当なら、ユミさんと2人きりだったなら、私はカッコよくスマートにカードで支払い、ご馳走するつもりだったのに。なんで男を連れてくるんだ。ひどいじゃないか。私の心は土砂降りレイニーブルーだった。
店を出るときには、意識朦朧としていた私は初代ゾンビと同じぐらい顔色が悪くなっていたに違いない。ユミさんが心配そうな表情で私の顔を除き込んだ。
「大丈夫ですか? 酔っちゃった?」
いや、自分で言うのもなんだが、私は酒に結構強い。めったに悪酔いしたりはしないが、今日はただ単に、ダルい。超ダルい。
「ちょっと、休んでいきますか?」
休んでいきますか、とは。もしかして、そういうことでしょうか。急激に血の気が宿り息を吹き返す私。デート初日で、いきなり休憩に誘ってくるなんて。なんて、積極的なんだ。しかも、パートナーと呼ぶ男性の前で別の男を誘惑するなんて。なんて悪い女(ひと)なんだ。だが、それが、いいかも。ちょっと待て。そういえば、さっきから水戸の姿がない。
「えっ? 来てすぐ10分ぐらいで帰ったじゃないですか。」
そうだったのか。私は、ユミさんに相手がいたショックのあまり、水戸の幻を見続けていたようだ。そういえば、近くで仕事がありたまたま時間があり、落ち合って店についてきたと言っていた。いや、それにしても、パートナーがいるくせに、他の男をホテルに誘うなんて。よくない。よくないよ、ユミさん。で、どうしますか。
「じゃあ、そこにドトールがあるから入って休んでから帰りましょう」
私は、ぎこちなく頷くとドトールに入り、コーヒーを、飲んだ。
★ ★
翌日、私は早朝の江の島にいた。
まだ冬真っ盛りということもあり、サーファーが数人いるだけだ。私は、何かがあるとすぐ、江の島にやってくる。寒空の下、思い出しているのは昨夜のことだ。
好きな人に、彼氏がいた。
私はまるで昭和の田舎中学2年生のような、純朴な悩みを抱えながら、海を見ている。初デートのつもりでセッティングした居酒屋に、自分の男を連れてきて平然としている女。そんな人間いるだろうか。これが、いるんです。そうなんですよ、川崎さん。ザ・ぼんちの大ヒット曲「恋のぼんちシート」を口ずさみながら海を眺めていると、徐々に昨夜の記憶がよみがえってきた。
――
ユミさんは、パートナーこと水戸がいなくなり私と2人きりになってからは、水戸の話をまったくしなかった。かといって私のことをあれこれ聞くわけでもなく、ドトールに移動してからは自分の学生時代の話や仕事の経歴を熱心に語りはじめた。有名大学を卒業してから就職した大手広告代理店の話、ヘッドハンティングされて転職した一流企業の話、退職してしばらく海外で暮らし、フリーランスのライターとして働いている今。どれも、私とは別世界のように感じられた。
ユミさんが薔薇ならば、私などどくだみ草。それぐらいの自覚はあった。学歴もなく、職歴もない。若さもなければ、テレビもない、ラジオもない。ないないシックスティーンというぐらい、まったく何もないコンプレックスまみれおじさんな私。共通点は、バツイチということだけ。なぜ、こんな私と飲みに行ってくれたのだろう。しかも、パートナーもいるくせに。私は、思いっきり卑屈になって尋ねた。すると、ユミさんはこう言った。
「だって、面白いから」
何がどう面白いかはわからないが、とにかく私と一緒にいることを楽しいと思ってくれているのは間違いないようだ。
「面白い人がいるから、彼に会わせたくて」
悪びれることなくそう言いながら、コーヒーを飲む。「面白い人」か。そもそも、私のことなど、異性として見てはいないのだ。私は、首が折れたのかと思うほどあからさまに落胆した。それを見て慌てたのか、ユミさんは
「これからも、たまにお話しましょうね」
そう提言した。だが、しかし。同居している男性がいるにも関わらず、他の男と会うなんて。それは浮気ではないのだろうか。
「は? なんで?」
キョトン顔のユミさん。まるで「少女に何が起こったか」の最終回に見せたキョンキョンのようなキョトン顔。なんて、かわいいんだ。それでも私は、素直に喜べなかった。だって、3年も同居しているということは、結婚するつもりではないのか。
「う~ん…私1回してますしね」
結婚する気、無し。そうなのか。ということは、別に飲みに行くぐらいは良いのかもしれない。
「全然、行きましょうよ。また誘ってください」
ユミさんはハッキリとそう言うと、こちらを見て微笑んだ。
――
ハッと我に返ると、いつの間にか江の島は日が暮れていた。水平線の向こうに沈む太陽を見ながら私は、華やかな経歴を誇り、独立してハイソな暮らしをしているユミさんに憧れにもにた気持ちを抱いていることに気が付いた。同じバツイチのフリーライターでも、こうも違うなんて。私にとってこの出会いは、宝物なのだ。よし、やろう。私は、オールスター戦試合後のジャイアント馬場のように呟いた。もう一度、食事に誘ってみよう。
そうと決まれば、早速調査だ。私は食べログをチェックしようと、スマホを取り出した。すると同時に、らむちゃんからLINEが届いた。
「かみ、きったの」
美容室で撮ったらしき写真と共に送られてきたメッセージ。写真では、どこをどう切ったのかまったくわからなかったが、とりあえず、かわいいね、と返信した。私はスマホをいったんしまうと、片瀬江ノ島駅に向かって歩き出した。すると再びスマホが振動している。きっと、らむちゃんからの返信だろう。私はスマホを取り出し画面を見て、目を見開いた。LINE電話の着信だった。私は躊躇しながら、電話に出た。
「はろ~ なにしてんの?」
受話器の向こうの懐かしい声に、私の頭は一瞬にして過去にタイムリープした。画面には、「マリナ」と表示されていた。
アセロラ4000『嬢と私』夢を見ていたらおじさんになっていた〜はほぼ毎週木曜日更新です。
次回更新をお楽しみにお待ちください。
月に一度のキャバクラ通いを糧に日々を送る派遣社員。嬢とのLINE、同伴についてTwitterに綴ることを無上の喜びとしている。未婚。
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