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【連載】中央線人間交差点 Vol.3──ライヴハウスが「異次元の世界」だった時代

StoryWriter

2017年はHi-standardが18年ぶりにアルバム『The Gift』をリリースし、そのリリース方法も含めて大きな話題をさらいましたが、最近ライヴハウス・シーンやフェス等で注目を集めているバンドたちの中にも、Hi-standardをはじめとする2000年前後に活躍したバンドたちの影響を、多かれ少なかれ受けているものも少なくありません。

しかし、その2000年前後から現在に至るまで、そうしたバンドたちがどのような状況や、街から生まれてきたのか、ということがきちんと語られることはあまり多くなかったかもしれません。あえて言うならば、多くの音楽メディアは渋谷や下北沢を中心にした視点でシーンを切り取ることが多く、新宿や高円寺などの中央線のライヴシーンをその街の視点からきちんと取り上げてこなかったということもあるかもしれません。

ここでは、その2000年前後の中央線沿線のライヴハウス・シーンと街の空気のようなものを、これも偏った視点になってしまうのかもしれませんが、とりあげてみたいと思います。これは、過去を懐かしむためのものではなくて、これから新しい音楽とライヴハウス・シーンをつくっていくために、これまでの積み重ねを確かめておく試みのひとつです。(手島将彦)

手島将彦(てしま・まさひこ)
ミュージシャンとしてデビュー後、音楽系専門学校で新人開発を担当。2000年代には年間100本以上のライヴを観て、自らマンスリー・ライヴ・ベントを主催し、数々のアーティストを育成・輩出する。また、2016年には『なぜアーティストは生きづらいのか~個性的すぎる才能の活かし方』(リットーミュージック)を精神科医の本田秀夫氏と共著で出版。アマゾンの音楽一般分野で1位を獲得するなど、大きな反響を得る。
https://teshimamasahiko.co
印藤勢(いんどう・せい)
1978年生まれ。インディーズシーンで伝説のバンド「マシリト」(2009年活動休止。2017年再開)の中心人物にして、長年ライヴハウス「新宿Antiknock」でブッキングを担当してきた、新宿・中央線界隈のライヴハウス・シーンではかなり長命な人物である。最近は独立してミュージシャン向けの無料相談等も行なっている。9sari groupが経営するカフェで、猫&キッチン担当。
Twitterアカウント @SEIWITH

連載第3回:2000年前後

 Vol.1ーー1994年〜1996年の高校生が感じた音楽と街の空気はこちら
Vol.2ーー1999〜2000年 高円寺周辺のライヴカルチャー

2000年前後のライヴハウス・イベント、LIMITED RECORDS、ハイラインレコード

手島将彦(以下、手島) : ちょっと話が逸れましたけど、そんなわけで印藤さんはANTIKNOCKに入ったと。ご自身のバンド「マシリト」はどんなかんじだったんですか?

印藤勢(以下、印藤) : 2年目くらいですね。デモテープとかも作りました。狭い箱ですけどライヴ企画をやって、友だちとか先輩とかを呼んで、ある程度賑やかになってきたって感じですね。当時の自分にとって、イベントを打つことが第一段階のステータスだったんです。

手島 : 「自主企画」がその頃から盛んになった気がするんですけど、どう思います?

印藤 : 今イベントをやるときって、誰かがリリースしたとか、何かしらトピックがないと動かないと思うんですよ。主にリリース関連ですね。当時は、自分たちがリリースするからとか、仲のいいバンドがリリースするから仲間を集めて祝おうみたいなのがセオリーだったと思うんですけど、それはワンランク上のイベントで誰もがやれたわけじゃなかったんですよね。そもそもリリースすることのハードルが今より高かった。バンドを始めて2、3年でCDをリリースできるのはすごいことだった。4、5年はかかるんじゃないのって感じでしたからね。ヒエラルキー的な話で言うと、ブッキングに出ているバンド、ブッキングライヴにしか出れないバンド、自分たちでイベントができるバンドでは大きな差がありました。自分たちでイベントができるバンドは、自分たちのバンド名だけでなく、イベント名という看板も背負ってライヴができるわけですから。

手島 : 僕も2001年頃から、マンスリーでライヴイベントをやりはじめたんですよ。主に渋谷の屋根裏でしたね。たしかに当時はリリースすることも、レコ発が出来ること自体もレベルが高かったですからね。僕のイベントは、そういうこと関係なしにバンドを集めていましたけど、たぶんバンドマンたちは誰かのイベントに出れるっていうことで、自分たちのランクがちょっと上がったみたいな感覚もあったかもしれないですね。

印藤 : 仲良いバンドと言っても片手、多くても両手で足りちゃうくらいしかいないから、すぐマンネリ化しちゃうんですよね。だいたい1回目は成功するんですよ。どんなレベルのバンドでも80人くらいは入る。それで2回目もやろうぜって空気になるんです。それもうまくいくと、ライヴハウスも美味しいから「じゃあ3回目も」ってなるんです。だけど、だいたいみんな3回目でこけるんですよ。

手島 : あー、わかる気がするなあ。

印藤 : で、こけるということが通説になってきたところで、仲の良いバンドと共同企画という流れになっていくんですよね。このバンドとこのバンドでイベントやります。じゃあ、6バンド集めるとして、Aというバンドが2バンド、Bというバンドが2バンド呼んできて、まあ、お見合いっぽいとこもあって。

手島 : で、前の話と繋げてみたいんですけど、ミクスチャー・ブームとかでストリートの連中がライヴハウスシーンに入ってきたわけじゃないですか。バンドマンにもライヴハウスにもお客さんにも。そういうのがイベント自体にも影響しはじめたりしてたんですか?

印藤 : 結局、イケている連中がストリートな感じだったので、イケているバンドを1組は呼びたいよね、という感じはあったかもしれないですね。

手島 : 印藤さんは距離をとっていたと思うんですけど、ハイスタを筆頭としたインディーズ・ブームがあったじゃないですか。ぽこぽこインディースで売れるバンドが出てきて。

印藤 : それをわかりやすく組織化してやったのがLIMITED RECORDSだと思うんですよ。

手島 : 時代の徒花と言ったら関係していた人たちには失礼なんでしょうけど、すごかったですよね、当時。

印藤 : 僕がANTIKNOCKに入った頃には、もうLIMITED RECORDSというのは存在していて。

手島 : 確かに当時LIMITED RECORDSの文化はありましたね。悪評も含めて(笑)。

印藤 : あと下北沢のハイラインレコード。みんな、デモテープとかを置いてた。僕はそこのアンテナにはひっかかっていたんですけど、いかんせん下北のカルチャーとは地元と離れてたこともあって、渋谷から向こう側の人たち、同じ環七でも甲州街道より向こう側の人たちは下北沢のその辺のシーンがステイタスだったんでしょうね。

手島 : その頃だと下北沢のGARAGEとかCLUB251とか、CLUB QUEはワンランク上として、そういうところにいた人たちはそんな感じだったでしょうね。Shelterはまたちょっと違うかもですが。もうBUMP OF CHICKENはデビューしていて、2001〜3年ころにASIAN KUNG-FU GENERATIONが出てきて、というのが下北沢ですかね。

 

印藤 : 僕が21、22歳のとき、僕なりに西新宿あたりのマニアックなショップの耐性はあったはずなんですけど、ハイラインは全部インディで、たくさん店員のレコメンドがあって。あれは深入りしなかったけど面白かったですね。

手島 : 僕の世代だと、それが渋谷系の文化だったんですよね。局地的にどこかのSHOP、たとえばHMV渋谷だけでバイヤーのレコメンドで売れるアーティストが出てくる、みたいな。それが会社から「これを売れ」といわれるようになってからおかしくなって。タワーレコードがそういう文化をちょっと受け継いだけど… となって、それがディスクユニオンがやっている感じなんでしょうね。ディスクユニオンもすでにその頃もレーベルとかやってましたね。ユニオンとかなんか絡みはなかったんですか?

印藤 : 僕は死ぬほどお世話になっていましたよ。めちゃくちゃニッチなところをやってくれていましたから。メタル館とかもあったし、ユニオンが1番スタンスが変わってない気がしますね。プログレとかでも良いんですけど、そういうコアな層を持ってますよね。コアな人って減らないから今でもやっていけているんですかね。

手島 : ちょっとアニソンとも通じますね。

印藤 : そうですね。ディスクユニオンは、コアな層にジャケ買いさせるパワーをもってますよね。凄いことだと思います。あと、残響ショップとかもハイラインとかと通じるところがありましたかね。

ライヴハウスが「異次元の世界」だった時代

手島 : 2000年初頭のANTIKNOCKは、どうだったんですか?

印藤 : 僕が初出勤の日、出演バンドがサイコビリーだったんですよ。ワインの瓶が割れて散乱するし、ぶっちゃけていうと「掃除がメインの仕事なのか?」と思ったくらい荒れていましたね(笑)。わかりやすく言うと、金土日はハードコアとか日本のレジェンドな人たち、ミクスチャー、ラウド、モダン・ヘヴィネス系の人たちがCYCLONEとかで盛り上がってるんですけど、日程がとれないとANTIKNOCKにやってきたりしていた。あとは、同じ7弦ギターでズンズンやっている人でも、今で言うパリピーみたいな派手目な人らは渋谷のCYCLONE、もっとアンダーグラウンドな人たちは新宿ANTIKNOCK、みたいな感じでしたね。

手島 : それは「新宿」だからなんですか?

印藤 : それは間違いないですね。

手島 : なんかそれ、わかりますね。同じジャンルでも新宿と渋谷で違うんですよね。

印藤 : 例えば同じドレッドの人がいるとするじゃないですか? 怖そうな。それがファッションのドレッドなのか、本気のドレッドなのかが新宿と渋谷の違い(笑)。わかりやすく言うと、こどもが遊べるのは渋谷、大人が新宿でしたね。

手島 : 新宿だとLOFTでもそういうジャンルのバンドが出るようにその頃はなってたじゃないですか。LOFTも子どもからすると怖い、骨太みたいな感じはあったかもしれないですね。

印藤 : 新宿LOFT、下北沢Shelterとなると、リリース2枚目、みたいな感じの人たちが出てましたからね。まあ6〜7年はやってるよね、という人が出ていましたし。

手島 : いきなりフロアぐちゃぐちゃ、みたいなところで働き始めることになったんですね。

印藤 : (笑)。印象的なのは当時の月火水木は、まだまだこれからのバンドたちがブッキングされて出ているんですけど、その順番決めるのがあみだくじだったんですよ。「15時入り」って言ったらみんなくるし、ジャンケンで決めたりもしたんですけど、みんな文句言わなかったし、遅刻してきたら当然1バンド目になっちゃう(笑)。平日のブッキングのチケット代が1,200円だったんですよ。ドリンク代が600円かな。なんて言うか、権力の話ではないんですけど、その日を組んだ人が全権力を行使できると言うか。

手島 : ああー、まあそういうことで言えば今でもそうですかね。基本ブッキングした人が決めると言うか。

印藤 : 今は、お伺いを立てるじゃないですか。この時間ならリハにこれます、とか。そのときはすべてライヴハウスが決めていましたね。

手島 : そういうところは、ライヴハウスが批判されたところでもあったんでしょうね。良し悪し両方あるんでしょうけど。

印藤 : まあ、ふんぞり返ってたと思いますよ。これも面白い背景があって。当時学んだことの中に、「舐められたらだめだ」という体育会系の名残みたいなものが根底にあって。バンド側がお伺いをたてられるようなムードじゃない。今も思うところはあるんですけど「望んでここにきたんでしょ?」というのはありますね。「ちょっとこういうの期待してた」というのを演じなきゃいけないっていうところもあって。

手島 : その「期待されてる」ことが時代とともに変わってもいるんでしょうね。

印藤 : そうですね、舐められ方、舐めてくる奴のタイプも変わったでしょうし。今だとアイドルのおかまいなしなふるまいというか、扱う人種の違いにも時代の変わりがありますよね。昔は、そういうふうにやらないとまとまらなかったというのもありますね。

手島 : 今よりも出演したいって言うバンドは多かったんですか?

印藤 : 全然多いですね。

手島 : いっぱいいるってことは、いろんなやつもいるってことですよね。それまでライヴハウスにこなかったような人もくるようになった。中には出演希望者が沢山くるから殿様みたいになっちゃう人もライヴハウス側にはいたでしょうけど、それとは別の意味で、そうしないとうまくいかないってのもあったんですかね。

印藤 : 槍とか弓矢とか飛んできやすいんですけど、僕らはブッキングという役割なので内部事情を言うと、PAとか照明の人とかリアル裏方の人がメチャ怖い(笑)。僕ら世代だと、そういう人たちのお茶を濁すようなまねは絶対出来ないんですよ。ライヴハウスにはライヴハウスのルールがあるってことを学んでもらわなきゃいけない、くらいに思ってましたからね。ここは学校でも会社でもない、ライヴハウスなんだと。あなたがノックして入ってきちゃった異次元世界なんですよ、だから僕らのルールを学んでください、という。

手島 : それについては今どう思います?

印藤 : なんて言ったら良いんですかね。みんな地下プロレスとか、映画で言ったら「ファイトクラブ」とか好きじゃないですか。あれが現存してる唯一の世界かもしれないですよね。

手島 : とくにANTIKNOCKはそうかもしれないですね。

印藤 : それを期待して来てるだろう、というのが前提だったんで。そういうのを求めていないお客さんんもいたと思うんですけど、今はそういう人はYouTubeとかで満足してるんじゃないですかね。

手島 : たしかに。当時のANTIKNOCKに来てる人の80%はそういう別世界を望んで来ていたでしょうね。

印藤 : 100円均一で買った服で六本木あたりの高級店に行ったら入店を断られるでしょうから、そういうのと同じ感じですよね。だから、そういう場所に行くにはなんとなくのルールがある。

手島 : ああ、あとそういう「暗黙のルール」を知ってる奴がかっこいいみたいなのもあるじゃないですか? そういうのがバンドマンにもお客さんにもなんかあって成立ってたんですかね?

印藤 : まあ、あといろんな論争の結論の1つには「自分で選んでるんじゃん」というのもあるじゃないですか。

手島 : ANTIKNOCKに行って「うわ、なんでこんなワインの瓶のガラスが飛散してるんだ?」とか言っても「だってそういうとこだし」みたいなところはありますしね。

印藤 : 雑に言うと、需要があったんですよね。もっときれいなライヴハウスだっていっぱいあるわけで。選択肢は他にもあるんですから。ただ、その世界の遊び方を知ってる、それがかっこいいみたいなのところには、勘違いする奴ってのもいっぱいでてきちゃうっていうのもありますね。

手島 : ライヴハウスで働くようになって、最初の仕事はなんだったんですか?

印藤 : 先輩のマガジンとかジャンプを買いにいってました(笑)。あとマンスリーが手書きだったんで、それ用にコラムを書いたり。でも6時出勤でいいんじゃないと思うくらい暇でしたね。折り込みとかやるんですけど、あまりやることないんですよね。結局何のためにいるかというと、電話だったり出演希望の人の対応だったり、緊急事態に備えてるだけで、基本「待ち」なんですよね。当時はドリンクの種類も少なかったからそういう準備も大してないし。オープンしたらスイッチ入れようぜ、それまで休んどこうぜ、みたいな感じでしたね(笑)。

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〜中央線人間交差点 Vol.4へ続く〜
※「【連載】中央線人間交差点」は毎週金曜日更新予定です。

 

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