【連載】中央線人間交差点 Vol.6──2005〜2006年、ライヴハウスの状況が変わって来た

2017年はHi-standardが18年ぶりにアルバム『The Gift』をリリースし、そのリリース方法も含めて大きな話題をさらいましたが、最近ライヴハウス・シーンやフェス等で注目を集めているバンドたちの中にも、Hi-standardをはじめとする2000年前後に活躍したバンドたちの影響を、多かれ少なかれ受けているものも少なくありません。

しかし、その2000年前後から現在に至るまで、そうしたバンドたちがどのような状況や、街から生まれてきたのか、ということがきちんと語られることはあまり多くなかったかもしれません。あえて言うならば、多くの音楽メディアは渋谷や下北沢を中心にした視点でシーンを切り取ることが多く、新宿や高円寺などの中央線のライヴシーンをその街の視点からきちんと取り上げてこなかったということもあるかもしれません。

ここでは、その2000年前後の中央線沿線のライヴハウス・シーンと街の空気のようなものを、これも偏った視点になってしまうのかもしれませんが、とりあげてみたいと思います。これは、過去を懐かしむためのものではなくて、これから新しい音楽とライヴハウス・シーンをつくっていくために、これまでの積み重ねを確かめておく試みのひとつです。(手島将彦)

手島将彦(てしま・まさひこ)
ミュージシャンとしてデビュー後、音楽系専門学校で新人開発を担当。2000年代には年間100本以上のライヴを観て、自らマンスリー・ライヴ・ベントを主催し、数々のアーティストを育成・輩出する。また、2016年には『なぜアーティストは生きづらいのか~個性的すぎる才能の活かし方』(リットーミュージック)を精神科医の本田秀夫氏と共著で出版。アマゾンの音楽一般分野で1位を獲得するなど、大きな反響を得る。
https://teshimamasahiko.co
印藤勢(いんどう・せい)
1978年生まれ。インディーズシーンで伝説のバンド「マシリト」(2009年活動休止。2017年再開)の中心人物にして、長年ライヴハウス「新宿Antiknock」でブッキングを担当してきた、新宿・中央線界隈のライヴハウス・シーンではかなり長命な人物である。最近は独立してミュージシャン向けの無料相談等も行なっている。9sari groupが経営するカフェで、猫&キッチン担当。
Twitterアカウント @SEIWITH

連載第6回:2005〜2006年

Vol.1──1994年〜1996年の高校生が感じた音楽と街の空気はこちら
Vol.2──1999〜2000年 高円寺周辺のライヴカルチャー
Vol.3──ライヴハウスが「異次元の世界」だった時代
Vol.4──青春パンク・ムーブメント、ナンバーガールと椎名林檎の功績
Vol.5──The Band Apartの登場、エモの系譜、ACB系の台頭

ライヴハウスの置かれている状況が変わって来た2005〜2006年

手島将彦(以下、手島):今から見ると、2005〜6年くらいからライヴハウスがちょっと失速していく感じがあるんですよ。

印藤勢(以下、印藤):中にいる人間からすると、ずっとその感じはあったんですよ。「こんなことやっていたら、ほつれていくよ、おかしなことになるよ」って。で、「はい、ほつれてきました」というのが2005〜6年頃じゃないですかね。ネットが更に発達したことと無縁じゃないと思います。

手島:ああ、たしかにそれはデカイ。

印藤:議論の場ができたというのがでかいんじゃないですか? そのときはmixiですね。その前はBBSの話でしたけど。

手島:ライヴハウスも、東京に関しては、増えましたよね。その前からその傾向はありましたけど。毎年、1、2軒できるようになってきた。

印藤:逆説的に言うと、増えたから議論されるようになった、という気もするんですよね。

手島:ライヴハウスの人間として、あの増えていく感じはどうだったんですか?

印藤:ライヴハウスって誰にでも作れるわけですよ。ドリンク以外に在庫をかかえる商売でもないし、「空気」を売っているとこなので。基本は演奏してもらうための設備投資とメンテナンスをしていれば回せる仕事ではあるんです。ただ、ブッカー(※そのライヴハウスへの出演者をブッキングをする人)という心臓の部分があって。店ができるたびに話になるのは「ブッカーはいるのか?」ということでしたね。「どこどこの誰々が働くらしいぞ」とか声かけられたバンドマンがいたりとか。

手島:少し話が変わりますけど、ライヴハウスにくる人たちも、ここで少し変わったのかなという気もするんですよ。音楽的・技術的ハードルが下がって、「とりあえず演奏できる」ようになり、良くも悪くも若い人たちがやりやすくなった。そこでライヴハウスが増えるということで、全体のレベルが下がった説みたいなのも出てくるようになって。「ライヴハウスは誰でも出れる」みたいな。実際は誰でも出れるとこもあれば、誰でもは出れないところもあるんですけど、世の中の人からすると「ライヴハウスのレベルが下がった」みたいなことが言われるようになってきた。

印藤:つまりライヴハウスが増え「過ぎて」いるってことですよね。数の話がされるようになる中で、「ライヴハウスの業態ってなんだっけそもそも」ってとこがまた議論されるようになった。当然みんなが武道館を目指す、Mステに出るのを目指すというのとは違う時代のはじまりでもあったと思いますし。単純に商売として成立ちやすかったので、ビジネスとしてはじめた人も多かった時代なんですかね。

手島:不景気になって、昔だったらライヴハウス用に貸さなかった不動産屋が貸すようになったとか、そういう話も聴きましたね。

印藤:あとは、老舗の中でもブランド力が通じなくなって、潰れはじめるところも出てきましたね。古いやり方や体質のところは潰れはじめた。今の若い人たちに合わせられるようなライヴハウスができてきたのもその位の頃だと思います。それまでは、「ライヴハウスはこういうところだから」と開き直ってやっていた時代でしたから。

手島:出演者やスタッフも変わってきました?

印藤:うーん。強いて言えば、腕組んでどしっと座っている親方気質な人がいなくなって来た時代。どっちかというと器用に立ち回ったり、俺みたいに天然な人間とか(笑)、あとは、バンドマンの中でそこそこアイコンになれるような人が働くようになってきましたね。遊びに行っていたやつがいつの間にか働いている、みたいな。

手島:バンドマンがライヴハウスで働いている、っていうのが多くなったころだったかもしれないですね。

印藤:本当は仮にバンドマンを1万人集めたとしても、ブッカーに向いてるのはその中に2〜3人っていう、すごく適性の狭い仕事なんですよ。本当は親方気質みたいな人になっていかないといけない。そうじゃないと、向いていないから飛んじゃったり、体壊したりする。ブッカーって精神を削る仕事だから、イメージと違って、結構向いてない人が多い。

手島:新宿・中央線界隈での変化はどうですか? 印藤さん自体の活動もさらに活発になるころだと思いますが。

印藤:自分のことで言えば、後輩が現れ始めるんですよね。そうすると結構残酷で、「印藤さん、俺、the band apart好きなんですよ!」とか後輩に言われて「え?」みたいな(笑)。「やっぱあいつらイケてるなあ」みたいな。そういう、まあ良い意味で身近な人間にジェラシーを抱くようになりましたね。後輩の感想ってすごい生々しくて。リアルで。

 

〜中央線人間交差点 Vol.7へ続く〜

※「【連載】中央線人間交差点」は毎週金曜日更新予定です。

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