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【連載】星野文月『プールの底から月を見る』vol.4「金魚の卵が降る朝に」

StoryWriter

キービジュアル:いとうひでみ

「金魚の卵が降る朝に」

5年生の頃、仲良くしていた男の子がいた。近所に住んでいて、放課後になるとどちらかの家で絵を描いたり、空想のゲームをつくったりして遊んだ。
彼は魚の絵を描くのが上手で、鉛筆で不思議な線を描いた。夏にはクワガタを採って、冬になると屋根にできた氷柱を手に入れて戦った。クラブ活動が始まると、前のようには遊ばなくなったけれど、たまに帰り道が一緒になると、最近の給食がまずいとか、二日連続で鼻血が出たとか、他愛もないことを話しながら帰った。

ある朝、いつものように登校していると、通学路にあった倉庫の壁に、その彼とわたしの名前が大きな相合い傘の中に書かれているのを見つけた。なんてことない、よく晴れた朝だった。よくわからなかったけど、心臓がばくばく鳴って、何かが起きたのだということだけがわかった。

教室に入ると、みんながちらちらとこっちを見ているような気がした。図書館で借りた、少女がふしぎな国を冒険をする話の続きを読もうとしたけど、あまり内容が頭に入らなかった。

二時間目の体育はマット運動で、体操着に着替えて、ずっしりと重いマットをみんなで運んだ。今日は、男子が教室で授業を受けると言われて女の子だけで練習をする。
体育倉庫から出したマットは湿っているような感触で、古いにおいがした。後転が何度やってもうまくできない。先生に途中から支えてもらってようやくできたけれど、頭がくらくらするからもうあまりやりたくない、と思った。あと、男の先生のゴワゴワした手でふとももを触れられるのがなんとなく気持ち悪い、と感じた。

給食の時間は、班ごとに机をくっつけて食べる。机を回転させると、窓と水槽がよく見えた。
何気なく金魚を見ていたら、弱そうなやつが一匹ぷかぷかポンプの水流に流されそうになっていた。他の金魚に比べてお腹のあたりがまるく膨らんでいて、よく見てみるとお尻のところから紐のようなものが出ている。変なかたち、病気なのかもしれない。
そんなことを考えていると、膝のあたりがひやっと冷たくなった。隣の席の子が牛乳をこぼして、わたしのズボンにかかったのだ。

5班は渡り廊下の掃除担当で、涼平君と一緒にバケツに水を汲みにいく。
ざばざばと大きな音を立ててバケツに水が満ちて行く間、涼平君が「M君は、お前のこと好きなんだって」と言った。その目の奥に、奇妙に光る色を見つける。あの落書きは涼平くんが書いたのかもしれないな、と思った。水をこぼさないように、ゆっくり歩く。
来週の体育は、今度は女子が教室で授業を受ける番になるよ、と教えてくれた。もうマット運動は飽きたからそろそろとび箱をやりたいね、とわたしが言うと、涼平君が「ねえ、射精って知ってる?」と聞いた。

放課後、みんながいっせいに下校をはじめる。ひとりで歩いていると自分の足音が砂利を踏みしめる音が聞こえて、ひとりじゃないような気持ち。
歩道橋の真上から国道を走るトラックの流れをみた。ヘビが出ると有名な神社を抜けると、M君の姿が見えた。いつもの紺色のトレーナー。水色の防犯ブザーが歩くたび揺れる。
わたしに気づいて、一度進んだ。それから、くるりと向きを変えて立ち止まって、今度はこちらに向かって歩いてきた。心臓がまた思い出したようにばくばく鳴る。
「あのさ」
「うん」
「家に帰ったらこれ、よんで」そう言って、四つに折った紙を渡される。
「なに」半分わかっているけど、聞く。
「いいから」こわばった表情で、紙を差し出される。一緒に遊んでいた時とはちがう顔は知らない男の人みたいだ。
「なんか……気持ち悪い」
「なにがよ」
「いつもとちがう、へん。こういうのやだよ」胃のあたりがぞわぞわして息が吸いにくい。
M君の困った表情。棒のように突っ立っている彼は痩せてて、萎んだみたいで、かっこわるい。
「どうしたらいいかわからなくて、手紙を書くのがいいって言われたんだ。だから……」
「うん。なんか、なんて言うのかな…怖い、って、思った」言いながら目に涙が溜まる。
「怖い? なんで」
「わかんない、わかんないけど」
自分の喉からしゃっくりが出て変な音が鳴る。M君の白い頬。ニキビが潰れた痕の赤。

家に着いて、ポケットに入れておいた紙をひらくと、か細い字で「好きです」とだけ書いてあった。
「なんで敬語なんだよ……」
しわしわになったその紙を引き出しの一番奥にしまって鍵をかけた。大きく息を吐いて、膝を抱える。
すべてがかっこわるくて、恥ずかしい。M君も、わたしも。

学校の図書館で図鑑を借りる。教室の弱った金魚から出ていた紐は、病気じゃなくて、卵管と言われる管だった。お腹に卵が溜まるとぱんぱんに膨れて、詰まると死んじゃうことがあると書いてある。自分のお腹の下の方が重くなった感じがした。

名札の安全ピンで、膨らんだところを刺してみたらどうだろう。水槽の中にきらきらの卵が広がって、初雪の朝みたいに積もるかもしれない。
図鑑の中の金魚は何も考えていない顔で、自分の鱗を光らせている。

星野文月(ほしの・ふづき)

1993年長野県生まれ。著書に『私の証明』(百万年書房)、ZINE『Summer end』など。

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