watch more

【連載】星野文月『プールの底から月を見る』vol.6「春の亡霊」

StoryWriter

キービジュアル:いとうひでみ

「春の亡霊」

仕事の関係で数日間東京に行っていた。特急あずさに乗るため、朝早く起きて駅までの道を急いだ。松本の気温は−4度だった。コートを着て、東京で手袋は要らないだろうからと思って、ポケットに手を入れて歩く。駅に着く頃には、手が凍えて感覚がなくなってきた。自動販売機であたたかい飲み物を買う。それを両手で包むようにして持ち、電車の指定席に座った。

東京に着くとすっかり春の色だった。みんなカラフルな色の服や、うすいトレンチコートなどを着てくるくると動きまわっている。自分を寒さから守ってくれていた冬のコートは、東京ではただの大きな荷物になった。どこか異国へ紛れ込んでしまったような所在のなさ。知っている場所なのに、何か重要な手ごたえのようなものがない、と不安な気持ちになった。

主な目的だった用事は初日で終わり、その後の数日間は、なんとなく行きたい場所に行くことにした。渋谷を歩いていると、人だけでなく、街自体が上下にゆっくり動いているようで、止まっていることが許されないような感じがした。自分には合わないリズムでも、とにかく歩き続けないとどこかへ追いやられてしまいそう。スクリーンで光りながら動く広告に気を取られていると、たくさんの人が一斉に道を渡ってくる。それが何かに似ていると思って、脳内で冬山で発生する雪崩の様子が再生された。ひとりひとりであるはずの人が、ひとつの大きな連なりのように見えた。

自分がかつて住んでいた街にもいくつか行った。シェアハウスをしていた世田谷の桜新町と、その後に住んだ阿佐ヶ谷。

特にあてもなく、馴染みのお店がまだあることを確かめながらふらふらと歩く。昔住んでいた家の前まで行き、誰かが暮らしていることを確認した。かつての住居を見ても、特に何の感想も抱かなかった。何かを思い出したり、感傷のようなものが欲しくてここに足を運んだような気がするのだけど、予想していたよりも自分の心の動きが小さくて、そのことが少し意外だった。

平日の昼間。嘘みたいに天気がよかった。あまり人がいない街をひとりで歩いていると、自分がこの世にはもう居ない亡霊になったような気分になる。
ふと、自分は本当にここに居たのだろうか、と思う。たぶん、居たのだろう。だけど、その事実を支えてくれるものが何もない、と思った。

最近読んだ本の中にこんな文章がある。

“古い写真、昔からの友人、色褪せた手紙、そういったものがあなたはもうかつてあなただった人間ではない、ということを思い出させることがある。(中略)人は自分で気がつかないうちに広大な隔たりを旅しているのだ”

“ある人びとは、価値観や習慣を家のように相続する。けれどもわたしたちのなかには、その家を焼き払って自分の立つ大地を探し、内面的な変身のためにゼロから建てねばならない者もいる”

わたしがかつて居た場所を見に行って確かめたかったのは、もうそこにいた自分は居ない、ということだったのかもしれない。そして、”ゼロから建てねばならない者”としての自覚を持ち、あたらしい場所でやっていく覚悟のようなものを得る。

無数に存在する自分の亡霊たちと、自分が“選ばなかった方”の道で生きている自分の姿を想像する。それらのすべては、現在の平行線上に存在し、そこでも自分は自分として生きている。同時に、異なる道を進む自分の“生”。それでは、今ここにいる自分は一体何なんだろう。

いつも春になると、頭がぼんやりして、そんなことばかり考えてしまう。あたらしく何かがはじまる予感の裏にある、選ばなかった可能性の気配のようなものを感じとっているのかもしれない。

何かを選んだ瞬間に、選ばなかった未来が零れ落ちて足元に埋まる。人は、自分が選んだものによってではなく、選ばなかった可能性の上に立っているのだと思う。

強い風がびゅうと吹く。素知らぬ顔をしてすべてを帳消しにしてしまうような春の風は、花を散らしてどこかへ消えた。わたしはしばらくその様子を見てから、来た道を戻って駅に向かう。千葉行きの中央線に乗り込み、新宿で降りる。それからまた、たくさんの人の中に紛れた。

引用元:(2019)レベッカ・ソルニット『迷うことについて』


『プールの底から月を見る』バッグナンバー
Vol.1「水底の日々」
Vol2.「冬の匂い、暗闇で痛みは鳴るから」
Vol.3「あこがれを束ねて燃やす」
Vol4.「金魚の卵が降る朝に」
Vol5. 「I’m here. You are OK.」

星野文月(ほしの・ふづき)

1993年長野県生まれ。著書に『私の証明』(百万年書房)、ZINE『Summer end』など。

Twitter:https://twitter.com/fuzukidesu1

note:https://note.com/fuzukidesu

WebShop:https://fuzukiii.theshop.jp/

PICK UP