マリナ。昔、私が愛した嬢。
いったいどれぐらいぶりだろう。私は、数年ぶりにかかってきた電話に少なからず動揺しながら、その声に耳を傾けた。
「ね、ね、アセちゃん、Amazonのアカウント教えて」
マリナは、いきなりわけのわからないことを言い出した。久しぶりとか、元気にしてたとか、最近どうしてるの、とか。そういうのは、ないのか。
「アセちゃんのアカウントでログインして、いい?」
いいわけないだろ。今の私は、NOと言える日本人。マリナに振り回され続けていたあの頃の私とは、違うのだ。ハッキリと断ると、マリナは落胆の声を上げた。
「ええ~「風雲!たけし城」見たいのに」
どうやら、Amazonプライムビデオを利用したいものの、会員ではないため私のアカウントを活用しようと思いついたらしい。そうか、なんてかわいらしいんだ。
「じゃあ、じゃあ、クレジットカードの番号、借りていい?」
無理に決まってるだろうが。一瞬でも気を許した私がバカだった。というか、いったいどこで何をやっているのだろうか。とうとう詐欺集団にでも加わったのか。私は次々と繰り出される理不尽な要望を跳ね除けながら、マリナに訊いた。
「今? タイだお」
タイに旅行に行っているということだろうか。
「ううん、タイに住んでキャバやってる」
日本で勤めていたキャバクラ「ラバーズオンリー」を辞めてから、単身タイに渡り現地にいる友だちの嬢から紹介してもらった日本人相手のキャバクラで嬢をやっているのだという。
電話の向こうで、何やらガチャガチャと音がする。訊くと、ゲームをやりながら電話しているという。さらにiPadでNetflixも観ているようだ。ドラマ「浅草キッド」を観てビートたけしに興味を持ったようで、「風雲!たけし城」を観たくなり、私がたけしファンであることを思い出して電話してきたらしい。私が話しかけても、ゲームに熱中しているのか、時折上の空で生返事をするマリナ。自分で電話をかけておいて、なんて失礼なやつ。
少しだけノスタルジーに浸りそうになった私は、現実に目を向けた。今の私は、真っ当な人生を歩み始めたばかり。そして、同じバツイチ独身(仮)のユミさんとの恋に目覚めたところ。過去との再会など、望んではいないのだ。私は、他に用がないなら切るね、と伝えた。
「うん、わかったー。あ、あとね、来週いったん日本に帰るから、また連絡するねーバイバイキーン」
まさかの、来日予告。二度と会うことがないと思っていた、嬢と私。腐れ縁とはこのことだろうか。私の日常が、少しずつ変わり始めていた。
★
私は今の生活に満足していた。食レポやエンタメ取材を中心としたライターの仕事の収入は1本でだいたい1万円~2万円程度、月収は20万円程度だったものの、キャバクラ通いを卒業したこと、コンビニでお菓子を買ったり漫画を買うのをやめたことで、自然と生活に余裕が生まれてきた。
それもあって、月に一度ぐらいはエトウさんたちとパーッと飲むことにしていた。いつもは私とエトウさん、そしてコールセンターで働いていた頃のもう1人の仲間、サカイくんの3人で飲むのがお決まりだったが、彼とはしばらく会えていなかった。
「ザガイグンは、今インドにいっでるらじいですよ」
ヨッチャンの通訳を待つまでもなく、なんとなくわかった。今、サカイくんはインドに行っているらしい。彼はお笑いコンビ「とんこつパラダイス」のボケ担当としてもピン芸人としても売れていたが、お笑い界最大の賞レースの生放送で持ちネタ「ピーナッツだよ~」を披露した際に下半身を全露出してしまい、テレビ界から追放されてしまっていた。コンビは解散、事務所もクビになったサカイくんはその後、でっちあげ暴露系YouTuberとなり世間の憎悪を一身に集めていた。そんな自分の罪を洗い流すために、インドへと向かったのだという。
「ごれが、いまのザガイグンでずよ」
エトウさんがスマホをこちらに見せた。画面の向こうには、長髪と伸び放題の髭で毛むくじゃらの中から目だけがランランと輝いている男が、上半身裸であぐらをかいて黙ってこちらを見ていた。しばらくすると、男は立ち上がると長髪が背中まで伸びた後姿を見せながら、「ポッキー」と呟いた。良かった、以前と同じ面白くないサカイくんのままだ。すると、横からヨッチャンが突然、スマホをこちらに見せた。
「このまえ、かおるちゃんと2人で初めてディズニーランドに行ったんです」
ヨッチャンが、エトウさんをチラリと見ながら、恥ずかしそうに言った。ミッキーの帽子を被った2人の楽しそうな姿が写真に写っている。テーブルに置かれたエトウさんのスマホからは、丸まったまま「まりも」と呟くサカイくんの姿が流れていた。
「かおるちゃん、絶叫マシンで声がうるさすぎるってクレームが来て、出禁になっちゃったんですよ!」
そう言いながらも嬉しそうにケタケタ笑うヨッチャンと、照れくさそうに頭をポリポリ掻くエトウさん。なんて、微笑ましいんだ。私は、正直言ってエトウさんが羨ましかった。
仲睦まじいエトウさんとヨッチャンとの楽しい時間を過ごしたことあり、帰宅途中の小田急線車内で急激に寂しさが押し寄せてきた。今、誰かに会いたい。だが、会ってくれる女性などいない。私はボーっと車窓の外を眺めた。すると、駅前の艶やかな看板が目に飛び込んできた。
そうだ、こんなときはキャバクラだ。もしくはガールズバーでもいい。とにかく早急に女性とのコミュニケーションを取って、乾ききった心に潤いを与えたい。嬢こそ私のオアシス。ドントルック・バック・イン・アンガーなのだ。そうと決めると、私はルンルン気分で、停車した電車からホームに降り立った。
そのとき、もう1人の私が心の中で叫んだ。いや、ダメだ、ダメだダメだ。寂しさに負けてキャバクラに行ってしまったら、元の木阿弥菊地亜美ではないか。今までの節約生活が破綻して、あっという間に私の生活はキャバクラありき、嬢最優先の生活になってしまう。私は、そんな意志の弱い自分をわかっていた。慌てて車内に戻ると、両手で吊革に掴まり、グッと奥歯を噛みしめて耐える私。具合が悪いと思われたのか、おばあちゃんが優先席を譲ろうとしてくれる。ありがとう、おばあちゃん。具合が悪いわけではなく、キャバクラの誘惑に耐えているのです。ハッキリとそう伝えると、おばあちゃんは「はあ…」と首をかしげながら隣の車両へと移って行った。きっと、キャバクラという英語がわからなかったのだろう。キャバクラではなく、キャバレークラブと言った方が良かったのかもしれない。私は耐えた。ひたすら歯を食いしばって、寂しさと切なさと心細さに耐えた。
「飲んできたんですか?」
ハッと我に返ると私は、ミラーボールが回るギラギラな空間にいた。ここはいったい、どこだ。そして隣には、オフショルダーの赤いドレスを着た女性が座っている。なんだチミは。
「私ですか? さっき言ったじゃないですか!」
女性は、そう笑いながら右手で私の左ひざをポンポン叩きながら、テーブルに置かれた名刺を指さした。
「キャバクラ トワイライト リサ」
と書いてある。髪型は明るめのアッシュブラウンの外ハネミディアムボブが似合う、おしゃれ女子。キリリと整った洋風な顔立ちが、しっかり者っぽい印象を与えている。さらに、左目の下にある泣きボクロがなんだか色っぽい。日に焼けた健康的な肌と好対照な、赤いリップから覗く白い歯が眩しい。しばらくリサ嬢の魅力に目を奪われていた私は、我に返ってあたりを見渡した。間違いなく、ここはキャバクラだ。どうやら自宅の最寄り駅を3つ通り過ぎた急行停車駅にある店のようだ。酔っていたせいか、あまり記憶がないが、人恋しさにフラフラと吸い寄せられてしまったらしい。
「ええ~ライターさんなんだ? かっこいい!」
リサ嬢が、名刺を手にしてそう言った。しまった、私としたことがつい仕事の癖で反射的に名刺交換してしまった。だが、リサ嬢の反応は上々だ。そうか、確かカタカナ職業はモテると聞いた。実際、職業を明かした瞬間、何故かリサ嬢はグッと体を寄せてきた。左腕にほんのり体温を感じる。
奥二重の瞼、シュッとした鼻筋。艶めいたデコルテ、そして巨乳。
「乾杯、したいな」
人差し指でクルクルと太ももにいたずらをしながら、目が合うとニッコリとほほ笑むリサ嬢。大人じゃないような、子どもじゃないような。オザケンが歌っていたような、少女と女性の狭間を感じさせる表情。なんて、魅力的なんだ。私は、禁キャバクラ状態をあっさり解禁して、ドリンクをOKするとともに、鏡月のボトルを入れた。すると、リサ嬢が言った。
「あ、じゃあ私もそれいただこうかな。アセロラで割っていい?」
私は、思わず声を上げて笑った。餅は餅屋とはこのことだ。結局、故郷であり原点はこの場所なんだ。私は久しぶりのキャバクラにいる心地良さと、リサ嬢の行き届いた接客ぶりに、しばし何もかも忘れて酔いしれた。
アセロラ4000『嬢と私』夢を見ていたらおじさんになっていた〜はほぼ毎週木曜日更新です。
次回更新をお楽しみにお待ちください。
月に一度のキャバクラ通いを糧に日々を送る派遣社員。嬢とのLINE、同伴についてTwitterに綴ることを無上の喜びとしている。未婚。
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