現在、ライヴハウス・シーンやフェス等で注目を集
シーズン1では、新宿Antiknockでブッキングを担当してきた印藤勢と、東京のライヴシーンを90年代より体験してきた手島将彦の2人の対談から、その歴史を浮かび上がらせました。
そしてシーズン2では、四谷のライヴハウス、アウトブレイク店長の佐藤boone学を迎え、手島将彦と印藤勢とともに90年代後半から現在に至るまでのライヴハウスを巡る環境、そこに渦巻く人間模様を検証していきたいと思います。
そこで起こっていたリアルな歴史を追体験することで見えてくるのもがあるはず!
ミュージシャンとしてデビュー後、音楽系専門学校で新人開発を担
https://teshimamasahiko.co
1978年生まれ。インディーズシーンで伝説のバンド「マシリト」(2009年活動休止。2017年再開)の中心人物にして、長年ライヴハウス「新宿Antiknock」でブッキングを担当してきた、新宿・中央線界隈のライヴハウス・シーンではかなり長命な人物である。最近は独立してミュージシャン向けの無料相談等も行なっている。9sari groupが経営するカフェで、猫&キッチン担当。Twitterアカウント @SEIWITH
連載第4回:バンドの“物販”っていつからやってたっけ?
バンドマンの物販もすごいことになり始めた1990年代
佐藤boone学(さとう・ぶーん・まなぶ)
ライヴハウス界の変化球「四谷アウトブレイク」店長。トイレのクラウドファンディング、早朝ギグ、自家発電などユーモアあふれる話題をライヴハウスに振りまき続けている。
・インタヴュー(OTOTOY)
・トイレの葬式、耳栓販売、献血・・・皆に愛される無茶苦茶なライブハウス【四谷アウトブレイク】(NAVERまとめ)
・「今夜四谷の地下室で」(ブログ)
印藤勢(以下、印藤):そういえばSHACHIのタケくんって、いろんなバンドがツアーをし始めた頃、人口分布図持っていたな。だから、この土地は何人、この街は何人みたいなのを常に調べた上でライヴをやってまわっていたんですよね。(笑)
手島将彦(以下、手島):そうして回っているSHACHIの物販の売り方は半端じゃなかったですしね(笑)。
印藤:あとは当時のB-DASHとかね、物販だけで日に何十万稼いでいたりとか。
手島:物販で食えるっていうのは1990年代からですかね。ヴィジュアル系だと「チェキは1000円札に変わる」ってことを普通に言っていて、もともとそういう要素はあったかもしれないですけど。その頃からバンドマンの物販もすごいことになり始めたんですよね。それが今でも続く訳じゃないですか。
佐藤boone学(以下、佐藤):そうですね。
手島:すげーTシャツが売れるとかね。
佐藤:しかも当時はちょうど裏原宿ブームの頃で。DEVILOCKのTシャツがプレミアつくみたいなノリで、バンドの物販は通販をやっていなかったじゃないですか。だから会場に来て、Tシャツだけ買う人とかいましたもんね。
印藤:その文化は今も残っていますよね。下手すると、さいたまスーパーアリーナとかに来て物販だけがーって買って、よし帰るかってぐらいの(笑)。
佐藤:そのへんはこの企画にも通じていますよね。今の若い子たちが言う「スーパーファミコンって何?」「パソコンが一台30万円した時代って何なんだ?」みたいなジェネレーションギャップというか。それの「ライヴハウスver.」みたいな! 「昼のオーディションって何なんだ?」「Tシャツだけ買って帰るって何?」とか、そういうの面白いと思いますね。
ライヴハウスにおけるフライヤー文化の変化
──それでいうと、ライヴハウスを出る時にもらうフライヤーもそうですよね。フライヤーからバンドを知っていくカルチャーも変化しつつあるのかなと。
佐藤:フライヤー自体はまだ存在しているんですけど、イベントによっては持って帰る人は圧倒的に減りました。バンドもバンドで「これ、折り込んでください」って紙のフライヤーを持ってくる人は年々減っている気がします。それこそ昔はバンドがライヴのフライヤーを刷って、いろんなライヴハウスに置きに行っていたんですけど、最近あまり見ないですね。
──効果測定の仕方はわからないんですけど、昔からフライヤー文化に触れている人は「配らないより配ったほうがいいのかな」って考えますよね。
佐藤:コミュニティが深い場合は有効だと思うんですよね。ライヴに来て欲しい客層が見込める場合とか、「ここはハマるぞ」みたいなイベントとか。むやみやたらに配ってもあんまり効果はないと思いますね。そこがズレていると、ライヴ後のフロアにすごい散乱しているし(笑)。
バンドが物販で売り始めたTシャツとステッカー
印藤:そういえば、22~3歳くらいからバンド中心で動き出してツアーにも出るようになったんですけど、友だちのバンドTシャツとかを着たり、交換して着たりとかやっていましたよね。
佐藤:特にパンク系とか。さっきのSHACHIの周辺は交換し合うのが当たり前でしたしね。
印藤:そう。Tシャツを持ってツアーに行って、お金にして、ガソリン代とか駐車場代とかに充てるっていうのが当たり前とされていて。
手島:当時、みんなTシャツのメーカーにめっちゃ詳しくなってましたもんね。「ここは生地が薄いから」とか(笑)。
佐藤:まだそれほど種類もなかったから。
印藤:吉祥寺にステッカー屋さんもあったよね。昔のタワレコの裏だったかな。奥の住宅街のところで家を改造しているみたいな。ステッカーを作るならみんなあそこだった。
佐藤:あー、あったあった!!
印藤:めちゃくちゃ安いやつ。ホームページとかない時代だったから、口コミで広がっていたんだよね。
佐藤:たしか雑誌の広告とかでも載っていたんですよね。それこそ『DOLL』とかに4分の1ページくらいのサイズで。大体バンドをやっている人たちが持ち歩いているのは、デモテープのカセットとフライヤー、+αでステッカーっていうイメージがありますね。
手島:ステッカーって物販の中でも手を出しやすいものでしたからね。
佐藤:世の中的にも、印刷物のコストが下がってきたタイミングだったのかもしれないですね。さらに今は相当安いじゃないですか。オンデマンドとかで。
印藤:バンドを始めた人たちが、まず物販で何を作ろうっていうのがステッカーでしたね。結構立派ないいやつ作れましたもんね。
ファッションや物販を意識的にやり始めた渋谷系の人たち
手島:ライヴハウス史みたいなもので言うと、昔から壁にステッカーをベタベタ貼る文化ってあったんですけど、Tシャツの文化はいつ頃から一般的になったんでしょうね。
佐藤:95年頃は、海外のバンドTシャツが欲しくても、帰る場所は原宿のダブルデッカーくらいで、たまにタワレコで売っているみたいな。
印藤:そう! 全く一緒。あとは西新宿のマリズロックにガンズとかのTシャツがあったなあ。
手島:僕は地方出身なんですけど、ダブルデッカーって通販もやっていたんですよね。で、いかにもバンドマンが着ているようなやつを親に内緒で買うわけですよ。別に内緒じゃなくてもいいんだけど、なんとなく気まずいから(笑)。そういう経緯があるから、上京してまず実店舗に行った思い出がありますね。それが91年とかだったかな。
佐藤:98年前後には、渋谷GIG-ANTIC(以下、ギグアン)があったじゃないですか。あそこは物販が外だったから、みんな並んでTシャツ買ったり、売ったりしていたのを思い出しました。それこそB-DASHとか。
※注1 渋谷GIG-ANTIC…渋谷駅から5分以内の場所にあったライヴハウス。2009年に閉店。
手島:シーズン1には出てこなかったけど、ギグアンはライヴハウスの中でも象徴的でしたよね。狭さもそうだし、駅に近くて。
佐藤:「ギグアンで企画ライヴ」って、当時ちょっとステータスでしたもんね。
手島:ギグアン出身のメロコアの人が多かったからか、ギグアンが出したメロコア系のコンピとかが結構売れていましたよね。あと、ファッションとか物販を意識的にやり始めたのって渋谷系の人たちだと思うんですよ。もともとは90年代の半ばから、サイクロンとかあの辺りに出入りしている人たちのカルチャーだった。バンタンとかと組んでファッションショーやっていましたよね。バンドTシャツを売るようになったのと同じ時期な気がします。ロフトがまだ西新宿にあった頃って、出演者がTシャツを売っていた記憶があんまりないんですよね。
佐藤:たしかにそうですね。ちょっとカルチャーが違う気がします。俺はイメージ的に、下北と新宿よりも、下北と渋谷のほうが近い感じがあったんですよね。その流れで俺たちも渋谷に流れていっていました。サイクロンはちょっと敷居が高すぎましたけどね。
印藤:俺どうしても新宿、池袋、高円寺がメインになるんだけど、佐藤くんは三茶生まれだもんね。渋谷下北はなんなら徒歩圏内な訳だし。
佐藤:ギターを背負ってママチャリで爆走するっていう。渋谷はわりと憧れに近かったですね。どっちかっていうとライヴハウスって下北ばっかりだったから。
〜中央線人間交差点 シーズン2 Vol.5へ続く〜
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