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【シーズン2】中央線人間交差点 Vol.5──音楽とファッション、tatoo、女の子

StoryWriter

現在、ライヴハウス・シーンやフェス等で注目を集めているバンドたちが、どのような状況や、街から生まれてきたのかを、2000年前後の中央線沿線のライヴハウス・シーンと街の空気から検証していく連載「中央線人間交差点」。

シーズン1では、新宿Antiknockでブッキングを担当してきた印藤勢と、東京のライヴシーンを90年代より体験してきた手島将彦の2人の対談から、その歴史を浮かび上がらせました。

そしてシーズン2では、四谷のライヴハウス、アウトブレイク店長の佐藤boone学を迎え、手島将彦と印藤勢とともに90年代後半から現在に至るまでのライヴハウスを巡る環境、そこに渦巻く人間模様を検証していきたいと思います。

そこで起こっていたリアルな歴史を追体験することで見えてくるのもがあるはず!

手島将彦(てしま・まさひこ)
ミュージシャンとしてデビュー後、音楽系専門学校で新人開発を担当。2000年代には年間100本以上のライヴを観て、自らマンスリー・ライヴ・ベントを主催し、数々のアーティストを育成・輩出する。また、2016年には『なぜアーティストは生きづらいのか~個性的すぎる才能の活かし方』(リットーミュージック)を精神科医の本田秀夫氏と共著で出版。アマゾンの音楽一般分野で1位を獲得するなど、大きな反響を得る。
https://teshimamasahiko.co
印藤勢(いんどう・せい)
1978年生まれ。インディーズシーンで伝説のバンド「マシリト」(2009年活動休止。2017年再開)の中心人物にして、長年ライヴハウス「新宿Antiknock」でブッキングを担当してきた、新宿・中央線界隈のライヴハウス・シーンではかなり長命な人物である。最近は独立してミュージシャン向けの無料相談等も行なっている。9sari groupが経営するカフェで、猫&キッチン担当。Twitterアカウント @SEIWITH

連載第5回:音楽とファッション

ライヴハウスに出ているバンドと世の中の流行が近づいた90年代半ば

佐藤boone学(さとう・ぶーん・まなぶ)


ライヴハウス界の変化球「四谷アウトブレイク」店長。トイレのクラウドファンディング、早朝ギグ、自家発電などユーモアあふれる話題をライヴハウスに振りまき続けている。
インタヴュー(OTOTOY)
トイレの葬式、耳栓販売、献血・・・皆に愛される無茶苦茶なライブハウス【四谷アウトブレイク】(NAVERまとめ)
・「今夜四谷の地下室で」(ブログ)

 

印藤勢(以下、印藤):音楽とファッションで言ったら、ビームスの40周年の動画は面白いよね。

──たしかにファッションと音楽の変遷が見えますよね。

佐藤boone学(以下、佐藤):ファッションっていうと、当時のライヴハウスの店員は特にとんでもなくおっかないっていうイメージだったな。

印藤:シーズン1では、2000年あたりでその“おっかなさ”がライダース系からストリート系に移り変わったっていう話が出たよね。

佐藤:その点で言うと、俺の地元の三軒茶屋は渋谷直系のストリートの怖い人たちがたくさんいたから、それに対する怖さにはまだ慣れているんですけど、ライヴハウスで会う人って違う怖さがあったのを覚えていますね。やべーって。今より明らかにライヴハウスに出るのも難しかった時代ですからね。印藤さんどのへんからでしたっけライヴハウスに出ていたの。

印藤:同じくらいかなあ。1996、7年の話だね。

手島将彦(以下、手島):僕は今、1990年代から2010年代までのシングルチャートの年表を作っているんですけど、90年代半ばのロックバンドってミスチルとかスピッツとかを筆頭に、世の中的にも売れるようになってきた頃なんですよね。ライヴハウスに出ている人たちって世の中の流行と違うことも多いけど、90年代半ばはちょっとだけその距離が近づいたというか。ミスチル、スピッツ、GLAYとかを見るとそう感じますね。

佐藤:そうですよね。あの時代はライヴハウスでの盛り上がりとある種共通しているところがある。でも実は、俺が行っていたライヴハウスには一切この流れがなくて、ミッシェル(THEE MICHELLE GUN ELEPHANT)かブランキー(BLANKEY JET CITY)かハイスタ(Hi-STANDARD)しかいないみたいな(笑)。

手島:ちょうどミッシェルが96年にメジャー・デビューだもんね。インディーズだともうちょっと前からだけど。

印藤:俺らからしたら、当時5つ、6つ年上の人たちが「HANGOUT」に出ていたり、いわばインディーズ・バブルみたいな感じでしたね。

※注1 HANGOUT…2000年より、テレビ東京系列で深夜に放送されていたインディーズバンドを紹介するテレビ番組。

佐藤:あった! おもしろいのが、その辺りの人たちって、絶対恵比寿のMILKでイベントをやっていたんですよ(笑)。先輩に呼ばれて遊びに行ったりとか、前座をやらせてもらったりとかして「これが大人の世界かあ」って思っていました(笑)。あの頃はみんなむちゃくちゃだったもんなあ。

バンドマンの彼女がデザインを向上させた?!

印藤:佐藤くんの先輩のバンドってどんなスタイルで音楽をやっていた人たちなの?

佐藤:僕らは基本的に下北屋根裏でライヴをすることが多かったので、先輩バンドは基本的にはパンク・バンドでしたね。ちょうどスタンス・パンクス(STANCE PUNKS)が大人気だったので。ブルーハーツ直系のパンク・バンドというか。そういう人たちとよく対バンしていましたね。

印藤:ミクスチャーとかはどう?

佐藤:同世代ではあるんですけど、俺が専門学校に入った2000年ぐらいから付き合うようになりましたね。

印藤:山嵐とかか。MILKに出ている先輩はそっち系だった?

佐藤:俺らも誘われたのはそっち系でしたね。大体、先輩のバンドの彼女がバンタンとかファッション系の学校に通っていて、ファッションショーで一緒にやるっていうゴールデンコースみたいな(笑)。

手島:うちの学校のイベントとかでも服飾系の学校とかとコラボしたファッションショーとかあったな。

佐藤:当時俺が見ていた中では、1番バンタンと文化服装が幅を効かせていて。バンドの中で文化に通う彼女がいたりすると、基本的にフライヤーもかっこいい(笑)。バンドTシャツとか衣装もちゃんとしているバンドは大体彼女が文化、みたいな。俺はこの頃の彼女もバンタンでしたね。

印藤:それはちなみにどういう出会い?

佐藤:対バンしていたバンドのお客さんでした。一緒に打ち上げをやって、連絡先交換して、そしたらバンタンだったんですよ(笑)。

印藤:じゃあご多分に漏れずなんだ(笑)。

佐藤:そうそう、当時は本当に周りも多かったんですね

印藤:入れ墨はいつ入れたの?

佐藤:俺、遅いんですよ。30歳を超えてからなんです。たまに専門学校で講師をやらせてもらってるんですけど、昨日も生徒に「僕も入れ墨を入れたいんです」って喫煙所で言われて、「辞めなさい」って言いました(笑)。「30歳を超えてからにしなさい、その時にまだ入れたいって思っていたらいいよ」って。

手島:ライヴハウスで普通にタトゥーを見かけるようになったのはいつ頃でしたっけ。

佐藤:俺の頃はあんまりいなかったなあ。

手島:タトゥーを入れている人が多いのってミクスチャー寄りでしたっけ。青春パンクの人って入れないじゃないですか。ジャンルで言うと、メロコアは入れますよね。(横山)健さんとかバッキバキに入れていますもんね。

佐藤:でも当時全然入っていなかったですけどね。逆にヴィジュアル系の方が入れていたイメージありますね。

手島:ヴィジュアル系だと、バラとか十字架とかですよね(笑)。モヒカン系のハードコアの人たちって入れていましたっけ。

印藤:入っているイメージですね。

佐藤:多分俺が子どもだったからだと思うんですけど、10代の頃、あそこにはロック・ショップがあるらしいぞって情報を聞きつけて、高円寺の古着屋とかに遊びに行くと、駅降りたら入れ墨が入っている人だらけで怖いっていう(笑)。本当はそんなにいなかったはずなんだけど、すげー怖かった印象は今でも残っていますね。

手島:やっぱり高円寺はそういうイメージなんですね(笑)。

印藤:イメージで怖がられる(笑)。

手島:東京の人ですらそう思っているんですもんね。

当時のバンドマンのステージ上の服装

──その時、佐藤さんの服装はどういう感じだったんですか?

佐藤:メロコアの流れを完全に汲んで、短パンTシャツが多かったですね。でもライヴの時だけ頑張ってピタピタの長ズボン履く、みたいな(笑)。鋲ジャンに憧れるんだけど、買えないから、原宿のダブルデッカーとかで10個いくらとかで売っている鋲を買ってリュックにつけるってことはありましたね。

──ステージ上は正装する、みたいな?

佐藤:スーツまではいかなかったですが、ちょっとだけそういう気持ちはありましたね。周りは当時、やっぱりスーツ率がめちゃくちゃ高かった気がするな。ミッシェルの影響が強すぎて。

手島:あの辺りからいわゆるガレージ・ロックみたいなバンドが増えてきましたよね。キング・ブラザーズとか。

佐藤:そうですね。「並木のスーツほしい!」みたいな。こないだやっと買いましたけど(笑)。

手島:その他は服装は違うけどブランキーですかね。ああいう感じもあの時代ですよね。

印藤:ブランキーはもう一個上のイメージ。

佐藤:しかもブランキーって好き嫌いはっきり分かれていた気がする。

印藤:あとギターウルフもね。

──印藤さんはステージ上でどんな服装だったんですか?

印藤:私服そのままでしたね(笑)。ライヴのために着替えるとかっていうのはそんなになかったです。

佐藤:それも派閥ありましたよね。俺の時は、周りにスーツが多いからこそ「着替えてライヴやるのだせえ」っていう風潮もあって(笑)。

印藤:ミリタリー系で、軍パンを短パンにカットして履いていたのは覚えています(笑)。

佐藤:俺もそれやった(笑)。

印藤:あと、みんなチェーンつけていたよね。俺はつけていなかったけど、あれは財布につながっているの?

佐藤:つながっているんですよ。でもライヴの時は財布が邪魔だからチェーンだけズボンにつけている人が多かったですけどね(笑)。

田舎から上京してきたらまず下北

──渋谷原宿はもちろんだけど、下北が今みたいに音楽的に人気な街になったのっていつ頃からなんですかね。

佐藤:俺らが行っていた頃から下北には洋服もいっぱいあったし。

手島:僕の世代の古着ブームもね。今もそうだけど。

佐藤:下北の古着屋でバイトしている女の子はよくライヴハウスにいましたね(笑)。あと、大体田舎者が出てきて飛び込んでくるのが下北の居酒屋なんですよ。俺たち当時ライヴやっていた時、俺らと同世代くらいの若い女の子がライヴハウスにいると、大体どこかの居酒屋の店員だったりしましたね。「田舎から上京してきたらまず下北」っていうのが今よりもしかしたら多かったかもな。

印藤:そういう女の子たちってどういうタイプのバンドを追っかけていたの?

佐藤:まだギター・ロックが存在しなかったので、パンク・バンドとかメロコアが圧倒的に多かったですね。屋根裏に限ったことかもしれないんですが、お客さんが全体的に若かった気がしますね。ライヴをしている本人たちが1番年上というか。

印藤:そもそも「屋根裏とかシェルターに出ようぜ」ってなった情報元ってなんだったの?

佐藤:「ぴあ」ですね。ぴあに載っているライヴハウスが最強だっていうイメージがあって(笑)。当時だと他には「ROCKIN’ON JAPAN」と「DOLL MAGAZINE」と「BURRN」みたいな。「DOLL」は隅から隅まで読んでいましたね。

〜中央線人間交差点 シーズン2 Vol.6へ続く〜

※「【連載】中央線人間交差点」は毎週金曜日更新予定です。

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