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【連載】星野文月『プールの底から月を見る』vol.9「高速バスで」

StoryWriter

キービジュアル:いとうひでみ

「高速バスで」

松本で暮らし始めてから1年半が経った。
そのことを人に話すと「まだそれしか経っていないんだね」と言われる。たしかに、自分でもずいぶん長くこっちにいるような気がしていた。

松本は便利なところで、小さなお店が街の中にたくさんある。
気兼ねなく遊べる友だちもできたし、山に囲まれていて、綺麗な川の近くで暮らせていることがうれしい。
大きなショッピングモールが家のそばにあって、映画館もあり便利なのだけど、資本主義、というか、見えない誰かに自分のお金の使い道を誘導されているような気持ち悪さを感じるときもある。

同一のテンションで店が並ぶ空間の中に長く居ると新鮮な空気を吸いたくなって、エスカレーターを駆け上がり屋上に出る。陽が落ちようとしている時間帯を狙うと、ひんやりとした風が吹き付けて、山たちは美しく光る。空と雲がうっすらとしたピンク色に染まる様子を網膜に映すと、その色がそのまま私の身体に染み込んでいくような気持ちになってゆく。息を吸ったり吐いたりしながら、気持ちが静かになるとまた、ごちゃごちゃしたイオンモールの中をするする抜けて、外に出る。今さっき見た景色を反芻しながら、ここにいるけど、いない、みたいな感じで歩いてゆく。

私はここの暮らしを気に入っている。
都会にいた頃よりいろいろな選択肢が減ったけれど、それでも豊かな気持ちでいることができていると思う。
東京に居ると、何もしない空白の時間があることがなぜだか許せなくて、休みのたびにどこかへ出かけては、誰かに会い、何かを購入していた。お金を使って動き回っていれば、空白を埋めることができると思っていたのだろう。

自分が行動しただけ世界が広がる都会の軽さと速さが好きだったし、案外、私はその感じに順応することができた。というより、結構順応できてしまった。だから、うっかり油断していると、すぐに自分の気持ちの在り処を見失ってしまい、他人の感情に簡単に飲み込まれてしまうようになった。

ネットで誰かが何かに怒っているのを見ると、自分の中に次第に怒りが湧いてくるのを感じて、それが勝手に膨らんで大きくなる。最初は興味本位で見ていたはずなのに、その怒りが発火して、今度は私が何かを発言しなくては、と使命感のようなものに動かされ、語気の強い文章を作成したところで「これって一体誰の怒りなんだっけ…?」と興奮していた自分が音を立てて萎んでゆく。たまに、自分の考えなんてものはどこにも無いんじゃないか、と思うことさえあった。

都会の夜はいつでもぼんやりと明るくて、それがある時からやたら気になるようになった。
眠れない夜に、窓を開けて外を見る。遠くの方から空が白くなって、街が朝を迎える準備を始めている。
私はこれからどうしたら良いのだろう。
朝の空気にすっかり満たされた自分の部屋の様子を眺めながら、自分の中で続いていた何かがひとつ完結してしまったような感じがした。

気が付いたら、もう要らないものを袋に詰めて、会いたい人に連絡を取って挨拶に行っていた。
自分でも驚くほどスムーズに引っ越しの手続きが進んで、あっという間に部屋は空っぽになった。物がなくなった部屋は知らない誰かの部屋みたいで、最初から自分はここに居なかったような気がした。

退去の立ち合いには大家さんの妹が来た。
1か月前に大家さんは亡くなって、いろいろな管理の引継ぎがまだできていないのだと説明される。
大家さんはすぐ近くに住んでいて、換気扇が回らないと連絡をするとノズルがやたら長いスプレーを持って家にやってきた。流しの台に登ると、そのスプレーをこれでもかというくらい換気扇の全面に噴射して、部屋中が変な匂いで充満した。急いで窓を開けようと鍵に手をかけると、背後から「壊れましたね」と小さな声が聞こえた。
網戸に大きめの穴があって蚊が入る、と伝えた時にも、2分後にはやってきて、その穴を確かめようと指をいれて、さらに穴が広がった。大家さんはいつも自力で解決しようとして、大体失敗していた。そこまで交流があった訳ではないけれど、最後の挨拶はあの大家さんに言いたかったな、と思いながら部屋を去った。

中央線に乗って新宿に向かう。高速バスの時間まであと3時間もあったので、急に思い立ってiPhoneを最新の機種に変えることにした。1時間くらいで終わるだろう、と思っていたら案外時間がかかって、今度はバスに間に合うだろうかという心配で店員さんの説明がほとんど頭に入ってこなくなった。
何かを問われていることに気が付いて、曖昧に頷くと、たちまちiPhoneの初期化が始まり、もともと入っていた写真とLINEの履歴がすべて消えた。何のデータも入っていない新品のiPhoneを片手に、私はまた新宿の街に放り出されて、バス乗り場へと急いで向かった。

足早に歩きながら、新宿の街の様子を買い換えたばかりのiPhoneのカメラで撮った。
画質があまりにも綺麗で、どこか現実味がない写真が撮れた。
画面の中の街は、私が今見ている景色よりも遥かに鮮やかな色をしていた。

バスに乗り込んで、行き先を伝える。
窓の外の景色はどんどん流れて、風景の輪郭が溶けてゆく。
抱えたままのリュックの重さはなんだか親しみがあって、暖かかった。
このバスが着いてからのことはどうなるかまだわからない。だけど、とにかく今は眠ろう。
大きな高速バスに揺られながら、身体はどんどん遠くまで運ばれてゆく。


『プールの底から月を見る』バッグナンバー
Vol.1「水底の日々」
Vol2.「冬の匂い、暗闇で痛みは鳴るから」
Vol.3「あこがれを束ねて燃やす」
Vol4.「金魚の卵が降る朝に」
Vol5. 「I’m here. You are OK.」
Vol.6 『春の亡霊』
Vol.7 「I remember nothing」
Vol.8 「静かな湖」

星野文月(ほしの・ふづき)

1993年長野県生まれ。著書に『私の証明』(百万年書房)、ZINE『Summer end』など。

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