キービジュアル:いとうひでみ
「真夜の現在地」
ここ数日間ずっとうまく眠れない日が続いた。朝起きると、背中に鉛を張り付けているみたいに重くて、それだけで気持ちもどぷんと沈んだ。びっくりするくらいの暑さが続いたかと思えば、大雨がざあざあ降って今日は肌寒い。エアコンが苦手な私は、夜中つけっぱなしで眠るか、タイマーで止めるのがいいのか、ずっと自分の中で正解が決まらない。眠れない、というだけでどうしてこんなに気持ちが焦ってしまうのだろう。自分だけ引き延ばされた夜に置いてけぼりにされてしまったような孤独と焦燥。
都会にいた頃は、眠れないとすぐに外に出た。真夜中でも煌々と光るコンビニに入り、そこで人が働いている気配を感じると少しだけ気持ちが楽になった。あてもなく、コンビニからコンビニへ星を結ぶように歩いた。夜に溶けきることもできず、何かを求めて光に吸い寄せられる奇妙な存在。
今は、外に出る気力もなく、ただベッドの上でじっとしている。音にやたら敏感になってしまって、下の階で暮らす人の足音や、冷蔵庫の音、よくわからないタイミングで流れる下水の音など、なにかの音を感じるたびに、自分がそこに含まれていないことを思い、大袈裟だけど世界から疎外されているように感じる。
爛々と目を開けて、当てもなくスマホの画面を擦ってみては、どうしようもない気持ちが湧いて、液晶を伏せる形で置く。それを繰り返して時間を溶かす。
トイレに立った時に、鏡に写る自分の顔を見たら、眼球がぬっとふたつだけ暗闇に浮かび上がっていた。皮膚や髪の毛はちゃんと外側、という感じなのに、目だけは常に濡れていて、内臓が外側に飛び出してしまっているように思える。それがぎょろぎょろと自在に動くものだから、昔からなんだか怖い。
人の目を見るのがどうしても苦手で、学生時代は「人の目を見て話を聞け」とたびたび注意された。学校生活の悩みを相談するような場所が設けられたとき、担任の先生から「何か困っていることはありますか?」と聞かれ「人の目を見て話すのがどうしてもできない」と伝えたところ、「眉間のあたりを見るようにすれば、相手は目を見られていると錯覚する」と教わった。
その助言をさっそく実行してみようと、少し楽しみな気持ちで部活へ向かう。言われたとおりに、コーチの眉間をじっと見ていたのだけど、どうしても視界に入る眼球の存在が、むしろ今まで以上に気になってしまう。自分の集中力が足りないことが問題なのだと思って、眉間を一点集中で見ていたら、距離感が掴めなくなって、世界がぐるぐる回りだした。もちろん話の内容なんて頭に入ってこない。何かしらの話がまとまり、チームの士気が高まったような気配だけを感じとって、コートに走っていく先輩の背中を、もっともらしい顔をして追いかけた。
私はどこに居ても、自分はここに居ないような気がする。ずっとそんな風に感じて生きてきた。
友だちのグループとか、部活、会社とか、そういう組織みたいな人の中に居るとき、まるで映画を観ているみたいだ、と思っていつもどこか他人事に感じている。自分の目で見ている景色を、誰かの記憶を再生しているように眺めている。
いつだったか友人が「粉が上から下に、ただ落ちてゆく夢しか見たことがない」と言っていた。
空を飛んだり、海の底を歩いたり、自分が少しだけ拡張されたような夢ばかり見る私は、それを聞いて驚いた。
だけど、共有した気持ちになっているこの現実というのも、人によってそれくらい見えているものが違ってもおかしくないと思う。対峙する人ごとに、当たり前に自分の姿や態度は変わるものだし、人の数だけ自分が居ると言うこともできるのではないだろうか。「本当の自分」なんてどこにも居ないし、同時に、どれもが「本当の自分」でもある。
ここにあるのが、“自分にしか見えていない世界”ならば、自分以外のすべては自分の中にある。
私は、どこにいても自分が居ないようにと感じていたけれど、本当は「自分以外が居ない」と感じているのかもしれない。
寝苦しい、と嘆いて焦りながら、思考はどんどん広がって、またこの体のもとに戻ってくる。
カーテンからは朝の光が透けて、また世界は今日をはじめようとしている。
『プールの底から月を見る』バッグナンバー
Vol.1「水底の日々」
Vol2.「冬の匂い、暗闇で痛みは鳴るから」
Vol.3「あこがれを束ねて燃やす」
Vol4.「金魚の卵が降る朝に」
Vol5. 「I’m here. You are OK.」
Vol.6 『春の亡霊』
Vol.7 「I remember nothing」
Vol.8 「静かな湖」
Vol9. 「高速バスで」
Vol.10 「夏のまぼろし」
星野文月(ほしの・ふづき)
1993年長野県生まれ。著書に『私の証明』(百万年書房)、ZINE『Summer end』など。
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