ある日突然、記憶喪失になってしまったらどうしようか?と、もしもの世界を考えてみる時間を過ごすのは誰しも経験したことがあるのかもしれません。
残っている点の記録から消えてしまった線の記憶を蘇らせることはできるのだろうか。
楽しかった記憶は残しておきたくて写真をたくさん撮って記録するけれど、意外と記憶に残っているのはカメラには記憶していない辛い記憶だったりします。
記録と記憶の違いは人間を人間たらしめる心であり、日々忘れゆくことは息をしている限り避けられないことで悲しさもあるけれど、そんな日々にどちらも存在している記録の明確さと記憶の複雑さはどちらも大切で丁寧にしまっておきたいなと感じます。
Vol.144『林檎とポラロイド』
☆4.0/☆5.0点中
https://www.bitters.co.jp/ringo/
「お名前は?」「覚えていません」──。
バスの中で目覚めた男は、記憶を失っていた。覚えているのはリンゴが好きなことだけ。治療のための回復プログラム“新しい自分”に男は参加することに。毎日リンゴを食べ、送られてくるカセットテープに吹き込まれた様々なミッションをこなしていく。自転車に乗る、ホラー映画を見る、バーで女を誘う──
そして新たな経験をポラロイドに記録する。
ある日、男は、同じプログラムに参加する女と出会う。言葉を交わし、デートを重ね、仲良くなっていく。毎日のミッションをこなし「新しい日常」にも慣れてきた頃、買い物中に住まいを尋ねられた男は、以前住んでいた番地をふと口にする…。記憶はどこにいったのか? 新しい思い出を作るためのミッションが、男の過去を徐々に紐解いていく。
ギリシャから届いた不思議な物語。
ある日突然記憶喪失するという奇病が蔓延する世界にも関わらず、ゆるっと穏やかな日常を過ごしている街には悲壮感はなくどこか楽しげで、終始物寂しい表情の主人公もなんだかクスッとした笑いを誘い、『林檎とポラロイド』と過ごす時間はまるで文学的小説をじっくりと読み進めていくかのよう。
監督を務めるのは、『6才のボクが、大人になるまで。』や、『女王陛下のお気に入り』の助監督を務めていたギリシャの新鋭クリストス・ニク。オリジナル脚本で創り上げた長編初監督作であり、記憶喪失を引き起こす奇病が蔓延する世界を舞台として描いたSFドラマにはクリストス・ニクのセンスやユーモアが抜群に光っています。
演出も構成も展開もかなり独特なシュールさがあり、画面の構図やカメラワーク、美術、色彩などの細部のこだわりを強く感じ、回復プログラムの治療に使われるポラロイドカメラやカセットテープ、アルバム、ラジオ、簡素で整然としたインテリアなどのレトロなアイテムが作品をノスタルジックに彩り、映画好きが思わずニヤッとしてしまうオマージュもたっぷりと感じ取れる世界が広がっています。
一見淡々と薄味に進んでいくように見える物語ですが、説明的な描写もセリフ自体も非常に少なく、無駄なものが全く存在しないスマートな構成の中で観客自身が行間を読み、様々な解釈の余地を与えてくれる感覚は心地が良く、その余白が好きな人にはたまらない作品となっています。
記録として切り取るポラロイドと、記憶の中にある林檎。
記録は消失しないが消ことはでき、記憶は忘れゆくことは避けられないが忘れたくても失えない。悲しかったこと、辛かったことは忘れてしまっていいものなのだろうか?それらの記憶も記録も大切なもので、そこから逃げるのではなく向き合い乗り越える為に残っていくものではないだろうか。
プツッと切れるような印象的なラストシーンに、本当に大切な感情はこの映画のようにあまり言葉にせず自分の中に大切にしまっておきたいと余韻を深める。
楽しいも愛しいも悲しいも寂しいも、全ての感情を抱きしめながら、今この瞬間を切り取っておきたいと願う毎日のふとした瞬間を写真として記録しておくことはなんて素敵なことなんだろうと、ポラロイドカメラをひとつ持ち歩いてこれからの日常を過ごしてもいいかななんて思ってみたりします。
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